noah777のブログ

ミッションノア

教会に行く意味


教会に行く意味1
教会で説教を聞く意味
おはようございます。
今日は、日曜日です。
礼拝ですね。
礼拝は、霊と誠によって主・イエスを礼拝する日です。
今日も元気に主を褒め称えましょう。
さて、今日は牧師の事について主から聖霊の導きがあり
ましたのでメッセージさせて頂きました。
最近私の周りには、教会に躓く人達が増えてきている。
また教会の牧師の説教など必要ないというわけではない
が、教会で問題があると教会にいかなくていいやという
クリスチャンがいる。
何とか自分が妥協できる教会に行きたいと思っては
いるが、中々ないので、行かないと言う人が多いのだが
、牧師も人間だから罪も犯すし、ふつうの人間
と変わらないという事に着目しなければならない。
しかし、モーセの十戒を破り義を行わず、社会常
識から著しく反した行為をしている牧師信徒に関しては
、教会の長老信徒で厳密に審査し、悔い改めが全く見られ
ない場合は、除名しなければならない。
しかし、それ以外のクリスチャンとは、お互いに理解し
あえる所を知り、忠告、戒め合いが済んだら、反目するの
ではなく、価値観の違いについては、大概の場合、背後にサタンがいて、混乱させようとするので、よく祈り合う必要があるのである。

ところで、多くの教会に行かない信徒が、教会に行かない理由としては、教会は2人、3人がいるここも教会であるから、何も教会を教会として考えなくて良い。

とか様々な言い訳をして教会に行かない人がいる。

教会に行きたくないので、神に言い訳しているだけで問題が自分にある事に気づいてない人も

沢山いる。

聖書を読んでいても、自分の心で考える人は、自分の都合で御言葉を利用して、都合よく自分の道理にあわせて聖書を読むので、教会から離れて行くのである。

では、牧師の存在意義とは何であろうか?

聖書では、聖霊が真実の霊であり、それぞれに賜物をあ
たえると書いてあり、救いの知識を備えるという。

牧師は必要ないのか?というならば、そうではなく、御言葉は、神に献身し、生活を全て捨てる覚悟を持った人に多く与えられるし、賜物として牧師が多くうける事が多い。

そして牧師は選びもあるが、兄弟が牧師を育てる事で、自然と多くの証し聖書の奥義導きを牧師が身につける可能性がある。

牧師になってから、従える人は少ないが、神の試練に耐えた牧師に神は、多くの救いの知識、力を与えるのである。

分かりやすく言うとソロモン王と民の関係と牧師は似ているか、多く倫理的な事に携わったり、民を公正に裁いたり、教える仕事をかれらはしていて、神から専門的に学ぶ機会が神に与えられているので、教会を正しく導く牧師は必要なのである。


だから上述したように、教会や牧師が不要という事ではありません。

次に教会生活について安息と聖なる聖別について語ります。

聖書に、安息日を聖とせよと言う教えと関係あります。
モーセの十戒の安息日を聖とする真意は、聖別である。
天国で成す事、神を賛美したり、真理を学んだり、御霊による活動は、普段出来ません。

人は、感覚的な欲求である快楽や肉的欲求があるから社会的活動ができる部分がありますが、そういった意味で私達は、罪、原罪があるから肉的な欲求を消し去る事は、出来ないのですが、普段出来ない、質量とか疲れが、支配されない至福、徳をはらんだ活動や家族愛が、霊的な神に対しての活動であり、肉的でなく霊的な生き方であるのですが、聖書で言う安息とは、神に対しての活動が愛が安息であり、ぐうたらする事が休むという事ではありません。

聖なる活動が、安息日を聖とする事であり、皆で一つ
に集まって礼拝する事が、安息日を聖とするという事です。

話しは前の話しになりますが、私達は牧師の善悪や信徒の行いの有無で教会を定めるべ
きではありません。
悪魔は、私達の思想を教会の善悪や良い悪いでその教会
を計らせようとします。
でも、それでは永遠に教会に行く事は出来ないでしょう



教会に躓くあなたは悪に囚われ、騙されています。
上述したように社会常識から外れた牧師信徒に対しては
私達が祈り集まれば、主がどのようにしたらいいか教え
てくださります。しかし何もしない、行いのない教会は、霊的に死につつあり、次第に、賛美
も小さくなり、混乱がまし、最後、人が離れて行くでしょう。

しかし、大概の教会でそのような事はないとおもいます


だから、私達が祈り求める事は教会の中での自己満足で合っては
なりません。
よく、プロテスタントの教会は、奉仕がつらいから、カ
トリックに来たと言う方の話しを聞くと、神に対しての
奉仕でなく、牧師に利用されていると考えしまい、不振感から

肉的
に物事をみてしまっている事に気づきます。

そういった場合は、その人を牧師として認めないで他の人を牧師にすれば良いのです。

そういった問題が解決されない教会は、まだ霊的に成長してないのです。


私達は、神の使命感を持って教会生活を送る必要があり
ます。神中心ならば、上述した問題は解決していきます。

ところで、牧師は、1.説教、2.カウンセリング

3.伝道に従事し、行い
を正しくし、何事に於いても自己の為ではなく、神の為
、人々の幸せの為に日々精進していかなければなりませ
ん。
残念ながら、牧師が金儲けの為や教会で物を売ったりす
る事を許す教会があります。

信仰ではなく例えば讃美集会にクリスチャンの歌手が来
るとそのグッズを売ってしまいます。
1円だろうと50000円だろうとやっている事は同じです。


教会で金もうけにつながる事をしてはならない理由は、
教会が神の教えを破るとそれ自体が信仰を持つ人の躓き
となるからです。聖書理解の妨げにもなります。

また、人の良心で神の掟を破るような事は、多々ありますが、私たちは、羊の門である神に全て聞き従わ
なければ、だんだん神から道がそれていき、救われなくな
ってしまいます。

だから、注意が必要です。
私達は平和な教会を探すのではなく、自分に相応しい教会を神から教わる必要が有ります。

先、ずご自身が神の使
命感に生きているか、自分を捨てキリストに従っている
かを吟味する必要があります。


説教はそもそも神と人とを一致させる為にするものであ
り、愛に冷え、心が迷い、この世の快楽や社会での欲望
で心が迷っている人々に、神の道を教え諭すためにするものであ
り、聞く側も、心の土壌が耕されてなければなら
ないし、また使徒の考え方が間違っているのならば、正さなければ
なりません。
罪の浄化清めをする為に教会は尽力をつくす必要があります。ところで、罪への捧物が、今は讃美、献金です。

しかし、心が神から離れていて、も意味ありません。

私達は日々互いに助けあう事が大事です。


また牧師は、信徒を育てなければなりません。
自己保身の為に信徒のいいなりになる人が多いのも現状
ですが、私達はルターの言うように、聖書中心の教会を
築くひつようがあり、それには、それぞれが、兄弟愛、
教会愛、を持つ必要があります。
この教会は、一人一人が神に与えられた教会なのだ
教会を自戒するものは、十字架であり、義によって教会
は歩まなけれは゛ならない。
神と共に歩まなければ、その教会は死んだ教会です。
ところでみなさん、今も私がこのメッセージを語って
いますが、時は川のように流れています。
だからこそ、外に出て行き、職場や主婦でしたらば、社
交場で神の愛を伝える必要があるのです。
疑わず信じるならば、リヴァイヴァル、神を信じる人が増
えます。
信仰とは、聖霊に燃えていきる状態を維持する事です。
信仰希望愛の中で希望は2番目ですから、私達は福音宣教の
道をあきらめてはならないし、マラソンのように継続す
る必要があります。
今日は教会で説教を聞く意味という題でお話をさせて頂
きました。