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ミッションノア

キリスト教の安息日について

キリスト教の安息日について


これは私なりの見解であるが、主イエスからの導きと聖書に書いてある記述と歴史を鑑みた上で出した結論なので、参考にして欲しいと思い投稿します。


色々意見あるとしても、最終的には、主イエスの恵みによってしか、一人一人に正しい理解が得られない事だと思いますので、反対意見に対してはご遠慮ください。


ただ土曜の安息日と(主の日=キリスト教の安息日)について迷っている人、知りたい人の為に主イエスにあって投稿させて頂きました。


さて、私が知っている神から示唆された事を書いておきます。


結論から言うと今キリスト教の主の日=安息日は、日曜です。

ユダヤ教は土曜日、イスラム教は金曜日です。


しかし、聖書に書かれているように、安息日は第7日に主イエスが休まれた土曜日であります。

モーセの十戒の安息日は今もあります。


使徒20;7、第一コリント16;2

を見ると週の初めに献金したり、パンを裂き集まったといいます。


黙示録1;10には、主の日にとかいてありますが、安息日とは書いていません。


当時主イエスを迫害し、十字架に掛けたユダヤ人は、クリスチャンを迫害したのは使徒9;1、2

を見るとこう書いてあります。


サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、

2

ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。


ユダヤ人はクリスチャンにこのような事をしていたのは、主イエスを3位1体の神であると認めないからでした。


しかし、天地を創られた神はこれらの事を知らないはずが、ありません。


ですから主イエスを神として崇めない人とそうでない人の救いの記しとして主イエスは、あえてユダヤ教の旧約聖書にある、安息日の土曜日に復活なされませんでした?


なぜですか?


聖霊降臨も復活も日曜になされました。


主イエスを、信じなかったり、神の預言や技を受け入れない文字だけ読み、霊を受け入れない人たちを区別する上で主イエスは、キリスト教の主の日を安息日となされたのである。


これは聖霊によってしか分からない事実です。

一人一人祈るしかありません。


赤い土とは、ヘブル語でアーダーマー赤い土といいます。

アダムは土から創られました。

しかし、第二のキリストは聖霊により造られて、復活しました。


ヘブライ1;6

更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。


聖書の中に安息日が主の日へと移行した事を主イエスが承認したとしたならば、私達は聖書を洞察して見て物事を判断する必要があります。


今までのことを整理すると


1;主の初め(主の初めは、日曜)に集まるようになり、パンを裂き(聖さん式)、献金した。


今までは、土曜日に集まった。


2;御子を礼拝せよ!!

大祭司であり救い主は、日曜に復活している事実、またヘブライ4;9

それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。

にあるように安息日がないわけではない。


今は現在カトリック、プロテスタント大多数は、日曜主の日を礼拝としている。


モーセの十戒安息日は、なくなったのではないので、休みは1日として、日曜がキリスト教の安息日であると結論が聖霊により導かれると思います。


しかし、321年コンスタンティヌス帝が、太陽神を崇める太陽の日により、日曜日を礼拝日としたという事は、コンスタンティヌスが、悪魔にそそのかされてそのようにしたのとは、


別に聖書で使徒たちは、すでに日曜を復活の主の日として礼拝するようになっておりました。


ニケーア公会議で太陽の日を復活祭に因んで礼拝を決議したのは人であったとして、

ラオデキア公会議で、日曜を聖なる日と聖別したのが教会の権威であるとしても


大切なのは聖書にどう書いてあるかです。


聖書で使徒がユダヤの迫害により計画により、主の日に礼拝聖さん式をするようになり、主イエスを礼拝する。

神を礼拝するようになった事実は、上述した人の意思とは無関係であり、聖書は、神の霊感で書かれた書物なので、使徒の行動には、深い意味があると思います。


ヘブライ1;6

更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。


この箇所が重要な箇所です。


長子とは主イエス様であります。


礼拝せよとあり、それは日曜の復活であった。


と私は導き受けました。


神の技により使徒たちが、主の日を安息日と制定した!


それは神の承認であったと導きありました。


主の日、日曜がキリスト教の安息日であると導き受けています。


後は祈り一人一人に与えられる事ですので聖霊に頼り一人一人が答えを見いだしてください。

信じる人は、救われています。

島崎藤村の破壊から誓うという事について考えてみた。


昔白人と黒人の差別問題があったが、日本でも穢多という人種がいた。舞台は信州、長野あたりだが、読み終えて中々の、名作であると思う。

一度読んで見るといいかも知れない。

概要しか書かないが、穢多であり、高等学校の師範であり、学校の先生である、主人公丑松と穢多でありながら、解放運動家で著書も出した、

先生と言われる、解放運動家、猪子蓮太郎と穢多である、主人公が主軸となって、物語が展開されている。

穢多とは、葬儀や牛解体など人がいやがるような仕事をしている人達で乞食よりも蔑まされていた。

縁起の悪い存在不気味な存在として見なされており、世間からは、毛嫌いされていた。

父は牛飼いとして生涯をむなしく終えたが、父は丑松に教養あるものとして世間に称賛される人物になってほしいという願いを託し、穢多であることを話してはならないというが、同じ穢多で、先生と尊敬する猪子蓮太郎にだけは自分が穢多であることを話そうと思った矢先に猪子蓮太郎が命懸けの政治活動故に命を落とす。

それにより瀬川丑松は、自分が穢多なのだと吐露して、学校を追われてメキシコで農家をするため新たなる地に立つ物語なのだが、穢多同士の友情、穢多であったと主人公の丑松が告白しても愛してくれる思いを寄せている女性や同じ学校の先生との友情物語で肩書きを越えた人と人との関係に感動を覚えました。

友人に、穢多から教育者がでるはずもないという考え思想があり、穢多を毛嫌いするが、穢多の丑松を理解し、憐れみ恋愛関係にある、お志保も貧しいながら、そんな丑松を愛するのである。

こうして物語は、愛と罪の狭間にあるこの世の中の闇そして愛を描いている。

ところで現代でも先入観で物事が判断されてはいないだろうか。

本質的には、人がいやがるゴミ掃除や葬儀などの仕事とるに足らないとされる仕事も尊敬されるべき仕事であると思うし、肩書きではなく、その人の能力で判断されなければならない。


しかし、現代資本主義の欠点は、需要と供給によりお金がもらえ、学歴の高い人達が偉くとるに足らないとされる人達の存在価値が否定されているからお金の価値も低い。介護などや非正規雇用など仕事は低賃金であるのは本来どうかと思う。

金持ちだけが幸せとなると思われる。

ところで、この現代の世の中で聖書の教えは、都合の良い部分だけピックアップされて教えられてはいな

いだろうか?

臭いところには、辛いところには、蓋をしめてはいないか?

また知らぬ間に仕事と、お金の問題から差別が生じたり、精神的病により働けない人、学歴 が中卒で字が書けない人を差別してしまうのが人間だが、悪魔はここを狙う狙われた本人も気づけないし、冗談をいれたり、柔らかい言葉で語ろうと差別した心は言葉となりでてしまうのである。

主は人を区別しない

十字架の救いは人を区別しないのである。

今からでも遅くはない

あなたも主に従い救われてください。

終末に備える。

終末に備える。(神の夢)


昨日神から夢を与えられたので共有します。

今、ガザでイスラエルとイスラムのハマスが戦争をしている。

世界では、新型コロナウイルスが蔓延しており、変異株が増えてワクチンが聞かない場合もあると言う。

この世界を創造されたのは、神であられる主イエス様である。

神は聖なる方であり、私たちは、その似姿に創造されている。

しかし、サタンである蛇が人類最初の精神の祖先アダムとエバを誘惑して、神が食べてはならないと言われた。

善悪の知識の木の実を食べてから人は、人であると言う事を知り神から離れて個体として認識するようになってしまった。

神よりも優れた神と同等の、知識を得ようとする高慢な思いから人の罪は始まったのであるからして、人は、高慢ゆえに、罪を認めないまたは、責任転換するように、なったまた個体は、比較をするようになり比較から妬みが生まれ自己称賛から、あらゆる確執が生まれ宗教の、違いから争いが絶えなくなりました。

哲学者キケロは、宗教についてこうときました。

こころを宗教は、一つとするのだと言う。

本来宗教とは、平和をなす者、神と人とが幸せに、暮らす方法であり、私たちが主イエスを信じて救われて死後天国に至らせる為に聖書や真理を探求するのでありますが現代人は、高慢な思想や科学、物理学等々の肉的な思いがあり、ヒューマニズム人の勝手な良心的判断で生きてしまって道に迷っていたり、神の計画にすら入れない状態です。

私も罪を犯すのですが、悔い改め続け変えられて行きます。

考えを修正することでもあり、過ちをおかしたら反省することでもあります。


神の計画により理性的な意味合いで罪を犯さなくなり、信仰が完全にされられるよう祈る日々です。


神が言うには人をおかしくするのは罪であり、邪魔な悪魔の仕業を取り除けば本来人は、正しく作られているのだと言う事です。

しかし罪はなくなりません。


ところが思いやりが律法であるというように神は、精神的な意味合いでの問題解決を人に信仰の完成という意味合いで求めておられます。

でなければ、聖書を読み真理を探求する意味を見失い、聖書を仕事以上に真剣に読むことをしなくなるだろうし、山の麓にいる人が救われるのは、その道にいるからであり、恵みにより救われたということは、道にいたっているから、救われている。

しかし計画により、違う救わ方をする人もいますが、最後は眠っている人も覚醒した人も道に至るはずだと思います。☺️

詩篇1;1いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず


2

主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

そして祈り行う必要あります。


救いは恵みですが、門を叩くのは人間ですから、祈り行いに至らない人の祈りは、サタンに惑わされており、偽りの祈りだから、福音を伝えないことに、気づかなければならない。


昨日見た夢で青年と私が話しをする。

青年は、救いに懐疑的であった。

現代人の、キリスト教に救いがあるのかと憤慨する。

私はこのように彼に教え励ます。

「人は自己の為に生きる事と他者の為に生きる生き方がありますよね?」

青年

「はあ?そうですね。」

「家族の為、自己の満たされない思いの為にこころを修養したり、自己の思いから生きる生き方と他者の為誰かのために生きる神の御心を知り、使命感により生きる生きた方は、肉的な、生き方と霊的な生き方で、根本的に違う生き方です。

神に従う生き方をしている人が本当に救われた人です。


神に従う人は、自己の思いで牧師にならない。

例え神学校に行こうとも神の了解がなければ、責任が持てるはずないし、神を恐れているから。


神に従う人は、不正を見抜くので、実によりその人が語る事を見分けるので悪い人を牧師として認めないないし、クリスチャンでも不正をし悔い改めない人を教会の友達として認めない。


だから、少人数でも聖書の神主イエスに従うならば、そこが教会になります。


また、信仰をもち、教会での奉仕や献金神と人々の為に生きる人は、心が解放されて自由にさせられ

心のこだわりや執着から解放されて生きれるようになる。


御心を祈り行うならば、神のか細い声が聞けるようになるが、最初に、神のお弟子さんになると言うと事が、信じた救われたと言う事だと思います。


青年「行いによる救いなのですか?罪を、悔い改め続ける必要あるのですか?」


今語った事が自己の行いの結果であるならば、それはあなたの言うとおり神と共にあなたが歩んでないし、サタンに騙されている可能性もあります。

主がイエスが先生であり主であり、主のお弟子さんは、神に全て従って生きる。


だから、聖書の御言葉とおりに生きるように心掛けるならば道に迷わないし、信仰によって生きる結果の行いが恵みによる救いの道であります。


何もしないで神との生活信仰生活がない恵みの信仰生活などあり得ない。


聖書にあるとおりです。


青年

「クリスチャン?

何だか色々と言うか。聖書の読み方も自己中心的な人霊的な人いるようですが?」

あなたは忍耐強く、怒りをおそくして、良く人をもてなし良き技に励みなさい。

公儀の小道である。

狭い門から入れるように心掛けてください。😎

すると目が覚める夢


主イエスを信じるならばあなたは救われます。

しかし騙されてはいけない門は広々としているからです。