noah777のブログ

ミッションノア

夕焼けの向こうの教会

中世のローマ・カトリック教会は、神の権威により、教皇が存在していた。
教皇が何をしようと、絶対的権利を持っていた。
教会の教えと恵みが重要視され、司祭が代理となり、とりなしの祈りや、徹夜でお祈りする事により、民の罪が許されるとされていた。
聖書を理解している人はごく一部で、信徒は神の恵みを受ける為、教会に頼り、司祭に頼り、献金する事により救われるとされていた。
その他にも、自己の罪の償いも必要であり、行いによる救いが、正しいと思っていた。
しかし、ルターの説いた、聖書中心、神中心だと、教皇も聖書に書かれている、神の御言葉に従わなければならない。
ローマ・カトリックに戦慄が走った。
自らの存在を、根底から揺るがしかねない事態が、ルターによって起きようとしていた。
グーデンベルグ印刷により、聖書を刷られてしまう。
こうして、ルターがドイツ語に聖書を翻訳して、ドイツの諸侯や民衆に伝わり、宗教改革がなされた。


時は流れ、1965年、小太郎が小学校の時、高度成長期と、オリンピック景気で、世が沸き立っていた頃、あちら、こちらに、団地が形成されて、一つの町が出来あがった。
いつものように、小太郎は学校へ行こうとすると、母が小太郎に、小太郎? 今日の授業参観日だけど、何時から?と話しかけながら、母は長い髪をドライヤーで琴のように、さらりと撫でて、快活な感じで、鏡をじっと見ながら、化粧💄をしていた。
ランドセル🎒を片手に持ち、パンを口で食べながら、小太郎は答えた。
母ちゃん、15時からだよ。
昨日も言ったじゃないか。
遅刻ギリギリでいそいでいるんだから。
絶対に来てよね。
小太郎の家庭は共働きで、父も、母も、忙しく、まだ、小学校6年でしたが、家庭のために、小太郎は新聞配達をしていた。
だから、いつも遅刻スレスレだったのだ。
町の中には車が走ってなくて、新聞配達をして子供が働いても、危険がなかったので、学校の許可が下りたのだ。
外側に車道が、団地を囲むように網羅されていた。
また、きれいに整頓された木々が、統一されていた。
近くには、子供が遊ぶ砂場にブランコがあり、町は活気に満ちていた。中央には、商店街、郵便局に、銀行、病院があり、沢山の人が行き交っていた。
小太郎はいそいで自転車に乗ろうとしたが、思いとどまって、主イエス様にお祈りをした。
神様!!今日も家族を守ってください。
私たち救われた事に感謝していますが、親戚の穂波ちゃんや、友達の寅次郎君、瑞穂先生が、まだ救われていません。
私たち家族が救われたように、あなたの愛で彼らを救ってください。
町の片隅には、小さな教会が建っていた。
教会には独身で、高校の先生であった、片岡先生が、いつも一人で祈っていた。
片岡牧師は、難しい哲学書と聖書を読み、いつも難しい顔をしていた。
僕にはそれがなんでだろーと思うのですが、教会学校では、いつもの暖かい陽気な牧師さんに戻るのだ。


時が経ち、52年の月日が流れた。
小太郎はサラリーマンになり、団地から離れて、1軒屋に住んでいた。
小太郎は、団地で20年育った。
仲間とは、同窓会でたまに会う。
教会には、行くのをやめていた。
歴史は神の存在を認められないほど、残酷非道だからかもしれないし、色々あったからとも言える。
しかし、満たされていた。
いつも、自分の思いで生きていた。
しかし、神様への祈りはやめてなかった。
そんな何気ない一時に、突如終わりがやってきた。


あれを忘れる事はできない。
突然の轟音と、共に現れた戦闘機により、爆弾が落とされた。
その時の爆風と潜熱で、町は跡形もなくなってしまったのだ。
国と国との戦闘は、7年続いた。
都会も、田舎も関係なく、人が当たり前のように倒れて、私たちは地下鉄の地下で暮らす事を、余儀なくされた。
クリスチャンであった豊田家は、非暴力を通していたので、迫害を受けた。
空は闇におおわれて、氷河期になってしまった。
罪の結果であろう。

神罰が下ったのだ。
この世は、絶望しかなかった。
キリスト教に改宗した人達は、いつも夢を見ていた。
ふるさとに訪れた時に、落とされた爆弾により、町は跡形もなく消え失せて、教会もなくなったが、

いつしかもとに戻せないものか願っていた。

しかし、人は戻らない。
今は神を信じるしかない。
天国、それだけが希望であった。
この世は絶望しかなかった
父も、母も、妹も、亡くなった。
友達のほとんどは、戦争で亡くなったと聞いていた。
世界が終わる3日前、私は夢を見た。
子供の頃にあった、授業参観日の夢だ。☺️


あまりにも克明に見える夢だったが、黙示録のラッパが鳴り、目が覚めた。
2025年7月24日は祭りの日だった。
2024年6月に休戦協定を結び、プレハブ小屋で暮らしていたが、1年たち経済も少し復興し初めていたので、祭りが出来たのだが、このひと時が、神様からの最後のプレゼントだったのだ。


私は浴衣を来て、お面を頭に掲げていた。
そしてあたりを散策していた。
はしゃいでいる、子供たちや、酒に酔い、楽しそうに縁日を楽しむ姿を満喫しながら、盆踊り大会に参加していた。
誰もが、このまま、時が止まれば良いのにと、思っていた。
ただ、ひたすら、民衆は涙を流しながら、踊っていた。
私は、次の朝の日曜日に礼拝に参加した。
私は、牧師になっていたから、説教を準備していた。
突如、市役所から町中で、スピーカーで流れた言葉に、私は愕然とした。
危険な猛毒が世界に流されたのだと言うのだ。
首謀者は科学研究者で、この世に愛想を尽かしたという理由で、このような事をしたのか?
なぜ、人類を絶滅させようとしたのか?
理由は分からない。
この猛毒が世界を滅ぼすのに、後1日だという。
教会は人々で満杯となった。
といっても、もともと主イエスを神と信じていた者だけであったが、私たちは賛美を始めた。
天と地は裂きわかれ、天使たちが降りる時、人々は仰ぎ見ぬ。
再臨の主イエスをという賛美歌を、皆で歌っていたが、血を吐いて倒れる人達が出始めた。
終わりのラッパが鳴ったのだ。
黙示録の予言が成就したのだ。
私たちは神に祈り、歌い続けた。
神よ、私たちの罪を許してください。
どんな償いもします。
あなたの命令の通り何でもしてきました。
何でもします。
私たちは何度も、神を忘れて罪を犯しました。
しかし、神よ!! 私の希望、それは主イエスの十字架なのです。
そして世界は終わりを告げ、人類は滅亡した。


ふと、目が覚めると、そこは暖かい黄金の世界かと思いきや、普段の日常であった。
しかし、嬉しい事に団地が、子供の頃と同じ姿で建っている。
幾つか違う所というと、皆白い衣を着ていて、大きな教会が、町の中央にあることだ。
私は、60年ぶりの我が家に帰ると、そこには、亡くなった父母、妹がいるではないか?
しかし、善行を行うといっても、神様の律法を無視していた人、聖書に書いてある事をしていると言っても、神様に聞き従わず、自己の都合で牧師や伝道をしていた人達は、何やら主イエスと争っていた。
彼らは、あなたのため命懸けだったのだといい始めて、ジダンダし始めた。
しかし、神様はこういった。
私はあなたに、こんなにも多くの物を与えた。
しかし、私の命令を無視して自分の好きな人や、
自分に利益をもたらす人にだけ与えてきた。
私は、裕福なあの人達に、届けてほしいと言わなかった。
それよりも、貧しく困っている、あの宣教師に与えて欲しかったのだ。
辛口なことも言うし、時に献金をねだることもあったかもしれないが、私は彼に与えたかったのだが?


私の預言者、天使を、あなたが無視していたから、あの時、あなたに真理と救いを与えるはずの、宣教師は死んでしまった。
善意とは何か?
このように、あなたに教えたのではないか?
それは、相手のはなしを聞き、それをする事であると言ったのだが?
神への奉仕とは何か?
神を恐れ、畏れ敬い、その時、私が望む、命令を成すことではないか。
あなたも病気で寝込んでいるとき、厚かましく、一緒に家の片付けするから、親切にしたいので、家に入れてくれと言っても、一人でいたいし、頭が痛くて辛いから、帰ってほしいと頼まないだろうか?
あなたは私のしてほしい事を完全に無視して、勝手に生きてきたのだ。
己の腹で信仰していたのだ。
聖書にはこう書いてあると言いながら、自分の肉慾や思いを捨てないでいたから、私に迷惑をかける事になったのだ。
何度も、何度も、忠告したはずだが?
あなたは、夢や警告を全く聞かなかった。
だから、私もあなたの過ちに気づかせるため、あなたに語らなかったのだ。
また、ある牧師に神様はこう答えた、
あなたは、悪魔にそそのかされ、金につかえていたのだ。
地位を手に入れるため、牧師を選ぶ権利のある、長老を金で買い、息子を牧師にするために、賄賂を送ったのだ。
あなたはその息子が怠け者で、生活のために、私を利用する者であると知っていたのに、牧師も、神学校も、私の言う事を聞かずに、僅かなお金の為と、息子の地位や生活のために、悪を行ったのだ。
創造主(主・イエス)である、私はそのような事をしなさいと言った事もないし、誰でも主よ、主よ、という者が、天国へ入れるわけではないと、言わなかったであろうか?
また、あなた方は忠告した人の言葉尻をとらえて、忠告した人を罠にかけるが、善行も、悪行に見えることも関係ない。
私が彼らに命じて、あなた方に忠告させたのだ。

神の御言葉を聞くだけで、偽りの祈りをした後、行わないのに、どうして、あなたは私を信じていると言えるのか?
預言者を通して語られた、御言葉に聞きしたがい、祈り、行い、私を信じていた人が、天国へ入れるのだと、私は聖書でハッキリと伝えたのではないか?


私はあなた方を知らない。不法をなすものたちよ、立ち去れというと、天に雷がなり、不気味な風が吹いてきて、彼らは何処かへ、吹き飛ばされて言った。


どうして、あのとき善意で語られた人達を、神が遣わされた預言者として、御言葉の使者として認めなかったのか?


私は、はっとした。
私が命令されて神からつけた教会名は、ノア教会、ミッションノア、ノアの会と名付けいたのだけど、ノアのように正しく生きるとは、神の命令に聞きしたがい、牧師や長老を敬い、平和と秩序を保つ事、これが生命の小道であったのだ。
亡くなるまで、私が主の聖霊によって、語った事はあなたの言葉だったのですね。
教会はノアの箱舟だったのだ。
そうだ、再臨を待ち望み、全世界に福音を、父母を敬うごとく、私が与えた地位で謙遜につつましく生き、皆と励まし合って、教会生活を敬虔に送っていた、あなた方は今その報いを受ける。
これから、神である私と、あなたの愛した人達との永遠の時が、待っているのだ。
今日も1日が始まる!
何も変わらない1日が!!
ハレルヤ!!罪の縄目から解放されたのだ。
罪のトゲは、取り除かれた。
飢えも乾きもない。
日曜日に礼拝へ行くと、なんと!! そこには殉教したヤン・フスが、500年前に亡くなった、ルターがいるではないか。
他の教会には、賀川豊彦、内村鑑三がいる。
夕暮れの中、互いに涙を流し、喜び溢れながら、神を賛美していた。
ただ、嬉しかったのだ。
皆、聖霊の愛に満たされていた。


夕焼けの向こうの教会
作者吉川 智明

人生論トルストイからの考察

私達人は母親から生まれて来る。
生まれてから何年かして言葉を話すが、人が理性を持ち自分という存在や他人という存在
善悪等々の感情を持つようになるのは、人によって違うと思うが、5歳位には、好き、嫌いとう感情や寿命があり、生まれて死ぬ存在であるという事を認識し始める。
動物と人間の違いそれは、人は善や悪を知り
時間と空間を認識し神から受けた愛という目には見えない感情を持ち合わせているという所で人間と動物を区別する事ができる。
動物にも感情があるし、愛欲的というか愛情愛着を持つし、時に本能で憐みを示す事もあるが、動物の思考するそれらの観念は、人と違い
その時その時の本能による行動で人のように、後で考えてこれは良い事悪い事という思いはない。
動物は、腹がすくと食べ、雄と雌が交尾をし、善悪という思いはないが、自己の体の痛み、また快楽により、どう行動するかを決めて行く。
例えば人に迷惑かけると人が叱る。相手が攻撃してくると言った自己の生命の危険や心の不愉快な思いを経験すると本能的にそれらをしなくなったり、例えば熊がおびえた人を襲わないと言った行動を動物的な本能で成している。
しかし人間は、パスカルが人は考える葦であると言うように、人は自我をもっており、善悪によって物事を決める。
例えば、政治活動により、国から迫害されても宗教弾圧があろうとも、人は神から与えられた良心という物があるので、動物のように嫌な目に合うと分かっていても、正しい理念を捨てようとはしない。
今回主・イエスの導きがありトルストイの人生論を紹介するにあたって私達がまず考えるべき事それは、人間は快楽や欲望のままにいきるサルのような生き方をしてはならないと言う事から話しをしたいと私は思い上述した事を書き語りました。
次に私が説明する事それは、人間の生命についてです。
物理的に言うならば、人の肉体は生まれてから死ぬまで細胞分裂していく。
10代の自分も30代の自分も高齢になった自分も同じ私であるが、10代の自分と高齢になった自分は全く違う存在であり、同じ自分である。
それは生命活動としている一つの生命体であるが、肉体的な生命には限りがあり、人の体は機械と同じように劣化しついには、死をむかえる。
知識人には2通りの考えをする人がいる。
1つは、自己の生命は肉体の活動だけが人の生命である。
2つ目は、人により認識された父、母家族、
この世に存在するあらゆる物質が事実と認識するこの古来から言われる魂という精神体は滅びない。
形を変えて死後も生き存在するという観念である。
人は寝ている時は何処に行っているのかわからないしたまに夢を見る程度で自我は完全に消滅した状況である。
理性的な人間でない原住民や昔のインディアンのように生きて死ぬという人もいるが理性的な教養ある人達は、何が正しくて何が悪い
という事を歴史を通しまた家庭の中で善悪を学びそして人がどう生きるべきなのかという事を絶えず自己啓発して生きている
このように考察する事が本当の健全な精神活動ともいえる。
だから人は愛国心を持ち政治に関心を持ちまたこの世を良くする事を絶えず祈り希求して
生きている。
聖書で主・イエスは平和を造るものは幸いである。その人達は神の子と呼ばれるとあるように人はただ食べて寝る存在ではなく理性的な生き物でもあるのである。
では人はどのように思考し生きるように神によって創造されたのかについて考えて行こう。
聖書では、私達には2通りの生き方があると言う。
1.律法を破り、罪を犯し悪を犯す生き方。
2.神の律法掟を守り、罪を犯さず善行して生きる生き方。
しかしこれらの事を人は子供の頃から何となく教わっているし、悪い事をすれば社会もその周りの人達もその人と関係を持たなくなるので多少倫理的な事について人が成人する頃には社会的な規範を大なり小なり身に着ける
しかし、人は生命の事に関していうならば、科学や物理学でまだ研究がなされていない未知なる物があるがゆえに、未熟な理解しかしていない人がほとんどである。
キリスト教では、私達人が創造主である主・イエスにより創造された事、人には罪がある事
その罪の贖いの為主・イエスの救い十字架が必要であり、罪赦された結果死後天国という新天地にはいる事できると認識している。
つまり生命は肉体の滅びに関係なく魂という精神体は、滅びないのだという事を知っている。
もし、人間の魂聖書では霊というが神が霊であるのに、人の魂が滅ぶ存在であるとしたならば、人には絶望以外残されていない事となる。
古来から知識人達や富豪たちは自我を肥え太らせ、自己の幸せの為に人を利用し奴隷を扱い自己の不幸となる物事を解消していた。
マズローが言うには人には5段階の欲求なるものがある。
1.第1段階:生理的欲求
食欲、排せつ欲、睡眠欲
第2段階:安全欲求
第3段階:社会的欲求
第4段階:承認欲求(尊重欲求)
第5段階:自己実現欲求


あるがままの心で生きたい、自己の思いを叶える為に生きる人はエゴ自我という事の欲求を持っており、これらの動物的な個我を満たす為に生きている。
ガラテア5:19肉による生き方
姦淫、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、いかり、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴
これらを肉の行い聖書で神が言う悪い行為とされています。
人が社会的な欲求を満たす事自己実現する事も悪い事でありません。
よく貪欲さが必要な時もあるといいますが、
その貪欲さを持つお互い人間の争いのけっかとならないように理性により動物的個我を制御し自我を理性により制御できれば、良いのですが貪欲、欲望が行き過ぎると例えば料理で使う火は便利なもので私達の生活に役立つものですが、火も強くなりすぎれば、家を燃し人に害を与えるように人の欲求もそれ自体正しい物の見方により、人に迷惑をかけない
状態を維持できれば、罪となりえませんし、
動物的な個我は有益な物となりえます。
しかし理性はまずこの本能で人が生きるサルのような理性的でない生き方を阻止しようとします。
なぜならば人間は神の似姿に造られているだけでなく神と同じ思考倫理観を持っているからです。
人間は善と悪天使と悪魔との中間の存在です。
人類最初の自我を与えられたアダムとエバは罪犯して楽園から追放されました。
人には罪があるので悪い事が出来ます。
罪がなければ人は自我を知り、事善と悪を知る事はなかったでしょう。
自分という存在を知る神と同等の知識英知が欲しいと願う事により罪がはじまったのです。
罪とは神を否定する事です。

また善悪関係なく、神を無視した観念に固執することも含まれます。
神の喜ぶ行為それが律法であるとするならば、欲望欲求がそれに相反するのでそれが善に見えても悪に見えても過ちであるという事を知る事が出来ます。
ですから人は、理性による動物的欲求を制御する必要があります。
何故肉的動物的個我を制御し時に理性により
消滅させる必要があるのかというならば、
動物的個我から来る罪欲望がある状態だと
新の知的活動であり生命の道である愛が人の精神に宿らないからです。
戦争があり争いの原因は動物的欲求低俗な思念がお互いにあり、その思いがぶつかり合うから生じます。
人は誰でも王になったり、高い車、家などを手にいれたがります。
また社会では優秀な成績を収め人が認められたがり、絶えず欲によって生きているのが現代人です。
しかしそういう生き方は一つの事を見落としています。
動物的な行為欲求で手にいれた地位や名誉お金など肉的な物事を満足させても人はまたもっと大きな欲望を満たそうとして常に終わりがないし人は死んだ時それらをもっていく事も出来ないだけでなく社会的な欲求も物欲も
恒久的な心の幸せでないという事です。
全ての肉欲的な物事には終わりがあるのに対してお互いが助け合い、与えあう愛には終わりがありません。
それは質量を越えた精神至福をはらんだ善による精神活動でありますが、至福をはらんだ善の精神活動他人の為に奉仕したり生きる生き方が理性が欲求する本来的な自己でなければならない。
しかしこれらの善業をしたとしても肉欲動物的個我を制御せずにした善業によっては真実の愛を手にする事は出来ません。
欲により愛の芽がふさがれたりまた自我が愛の行為を否定してその自己犠牲の愛を継続
できないからです。
愛という芽が芽生え育つのには時間と互いに与えあう精神的活動が必要である
し、それらの活動の結果神が人に愛の感動を与えて下さらなければ、それらは成長しないからです。
2つの芽があったとします。
1つは悪業と言う罪の芽
1つは、善業から来る愛という芽
人が勘違いするのは愛欲愛憎と真の愛との違いに関して間違った考えをもっています。
恋愛で人を好きになるという偏った偏愛は真の愛とは違います。
自我を満たす愛母親の息子に対する愛は本物ですが、それと同時に肉的な思い動物的個我に対して注目すると
例えば愛する人を他の相手にとられる。
息子は愛せても他の子は愛せないこのような
愛は偏愛でありますからまず家族とか結婚相手という垣根を動物的個我を制御し時に消滅させていく必要があります。
神を愛し隣人を愛するとは主・イエスが言うようにその困っている人を助けたり与える事により愛をしる事が出来ます。
しかし愛を知るにはマズローの法則にあるように互いの欲求が互いにぶつかり合う時戦争、争いがおこるので執着、こだわりといった動物的個我から来る悪を理性の法則、神の掟により制御して時に自己犠牲の愛により、お互いがその欲求を抑えるひつようがあります。
例えば一人の女性を2人の人が好きになったとします。
すると争いが生じる。
また食べ物がなくパンが1つしかない。
3人が死ぬほど腹を空かせている。
どうするのかというならば、究極的な愛は主・イエスが私達の罪の為に十字架に架かられ私の罪の贖いをしてくださったと同じく
自己を完全に捨て、神と人の為に生きれるようになる。
これが私達が目指す神から与えられた究極的な神の道、人が目指す最終的な道の到達点という事が出来ます。
世界の平和の実現の為には動物的個我を理性的な霊による聖書でいう聖霊様により制御して頂かないなりません。
人は新人類、神の人へと進化する生き物なのです。
人は神の人ゴッド・メッシュを古来から天使アンゲロスといいます。
また、人は行いにより進化によって救われるのではなく、その生き方を計画的に選んだ事により計画によって救われているのです。
エゼキエルの書にあるように人はすく゛悪い事も良い事も出来ます。
しかしどのような時にも神を愛し人をあいするようになるには、神の試練が必要にもなるし、色んな善悪の経験を通して人は悪より善を取り救われて行きます。
ですから主・イエスが言う古い皮袋が仏教でいう修養、精進忍耐であり、これらを行い
ブドウの木である主・イエスにとどまるならば、時間がかかりますが愛が芽生えます。
しかしそれを邪魔するのがお金に対する執着、自我を満たす自己の都合の偏愛や罪です。
これらの罪からくる弊害を理解しそれらを制御し真の愛、生命に至る事が人生論でトルストイがして言う人の生き方です。
人は愚かなので自己のヒューマニズムによりこの今の価値観だけで物事を判断し、その時の結果、例えば受験で良い成績を残し大企業に入れさえすればそれが正しいとしてしまう生き物ですが、そのような誤った今だけ金だけ自分だけという生き方は怒り憎しみ争いを激化させ常に心は不安に駆られます。
動物的個我を制御するとは神を畏れそこに神の為世のため人の為にいきる生き方を制御したうえに倫理という思考によって用いるという事です。
例えば弁護士になるといっても肉的な思いでは、認められたい、自慢したいですが、
世の中の悪や不正に対して救いの手を差し伸べたい。
正しく裁き世の為人の為社会に貢献する生き方を動機として動物的人の欲求を用いそれが争いや神や人に迷惑をかけないように制御する。
そういう生き方をする事が必要ですが、その為にはお金の為自己の思いを完全にまず捨てて神に祈り真理を洞察して倫理観を高める必要がありますが、誰でも精神的指導者になれるのではないのは上述した動物的個我によりその高みにいたらないと神の英知聖霊の愛が完全にその人に宿らないからです。
教会キリスト教会はここを間違うのであり、
本当の救いはやはり自己が神に求めそして心を清くして本質を見極めるようになる必要があります。
すると神は正しい方ですから良き指導する人と出会わせ良き友良き信徒と出会い救われていきます。
行いが悪い人と神は仲良くしませんので、トルストイがこの仏教でいう悟りの境地を教えられたのもトルストイが正しい義人であったからであると思います。
それにふさわしい人に囲まれて愛されて死んでいったのでしょう。
彼の魂心は光輝いていたのだと思います。
愛によってそういう事を求めなくなっているとしたならば、それこそ精神的な病であると
言えますし、哀れな人生ともいえます。

愛は全てに平等に与えそこに利害損得はありません。

愛は忍耐強く真の愛は、分母分子で言うと先天的な分子の愛でなく、全ての物を慈しみ、憐れむ大慈悲であり、全ての人を救い得る愛です。
ところで、死は生命が変化するだけで、変わらず存在しているとトルストイは言います。


さなぎから蝶に変わっても実体の霊は死後の世界で存在しているのです。
人の本来の目的それは、神と共に住まう新天地に至る為に善を取り罪を制御して生きるその付帯要素になるのが仕事であったり夢であったりしています。
私達の人生は影にすぎません。
イドラやイデア論にあるように人の実態は善と悪による精神体なのです。
仕事や日々の生活はこの精神体である魂の完成の為にあるのだという事を知ってほしいが為に私は人生論について主・イエスにあって説明させていただきました。
そういう生き方をする人にとって夕焼けの太陽、波の音、大自然は神の愛により創造されたと心に感動し涙するようになり神を一層求めて行くようになります。
年を取るほど感動がなくなるのは動物的個我は愛を阻害し、肉欲と言う心の油により純粋な精神が鈍って理屈によって心が狭くなるからです。
常に祈り、聞き、行う人は死ぬという苦しみから解放されます。
なぜならば罪を覆うのは愛であり愛に全くの恐れはないからです。
私達の魂は死ぬ事はないからです。

キング牧師の夢


平成21年1月20日、アメリカ史上初めての黒人の大統領が、誕生しました。
その人の名は、第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマです。
この国で黒人の大統領が生まれた事について、歴史を鑑みるとよく分かるのですが、この事は、奇跡と言っても過言ではない程のビッグ・ニュースでした。
白人と黒人の間で黒人を下位の者として見てきたこの国で、オバマ大統領の誕生は、国民にとって大きな、大きな喜びとなりました。
人種差別のある国としてアメリカは知られていましたが、人類は日々学び進歩しているのだと私は思いましたし、非常に喜ばしい出来事だってと感じました。
昔のアメリカは、周知のとおり白人と黒人の差別がありました。
そんな中差別に対して毅然として孤独に戦っていた方がおられました。
その方の名は、マーティ・ルーサー・キング牧師です。
以前は差別が酷く、黒人の大統領が生まれるなど信じられない状況だったのです。
だから、黒人の大統領オバマ氏が就任したことを一番喜んでいるのは、きっと人種差別と戦っていた、黒人のキング牧師だとおもいます。
黒人のキング牧師がワシントンの大行進で語った言葉が、今現実のものとなりました。
Ⅰhave a dream私には夢がある。それは、いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に生きられるようになることだ。
私には夢があるのだ!
当時、黒人と白人の人種の差別はひどく、バスに乗るにしても、レストランで、たべるにしても、白人と黒人の座る場所まで、はっきりと区切られていました。
しかし、そんな中キング牧師は、非暴力を通し、モントゴメリー・バス・ボイコット運動、や、sit・in と呼ばれる、人種差別撤廃運動などの活動を恐れずに活動していましたが、最後は、とても残念ですが、暗殺されました。
彼は、Ⅰhave a dreamというかれの夢の実現を夢見て殉教しました。
彼は、長生きをすることよりも、主・イエス様のために生きる事を選んだ偉大な人です。
彼はこう言いました。
これから先、何が起ころうとしているのか、私には分かりません。確かに、われわれの行く手にはさまざまな困難が待ち受けています。
しかし、私にとって、それはもはや問題ではありません。なぜなら、私は山の頂きにのぼったのです。私はもう何も気にしてはいません。
ほかの誰もがそうであるように、私も長生きをしたいと思っています。長く生きることには、それなりの意味があります。しかし、私は今、そのことに執着していません。私は、ただ神の意志のままに行動したいのです。
神は私に山の頂へ行くことをお許しになりました。そして、私は山の向こうを眺めてみました。そこに、私は約束の地を見たのです。
皆さんと共に、あの約束の地へ行くことは、私には出来ないかもしれません。けれども、今夜あなたがたに知ってほしいことは、我は、皆、一緒に約束の地へ着くことが出来るということです。
私は今、とても幸せです。何も心配しておりません。誰も恐れておりません・・。
彼の命をかけた願いは、オバマ大統領へとうけつがれました。
かれは就任演説でこういいます。
先人たちが、ファシズム=独裁主義や共産主義を屈服させたのはミサイルや戦車によるものではない頼もしい同盟国と、強固な信念によるものだと・・・。
またこうもいいます。
私たちは恐怖より、希望を対立と不和よりも共有することを選びここにあつまったと。
聖書で、主・イエス様はこういいます。
ヨハネ11:25私は、よみがえりです。
いのちです。
私を信じるものは死んでもいきるのです。
主・イエス様の十字架を信じるならば、
私の人生も世界の人達の人生も新たに変えられます。