ヨブ記の答えについて
ヨブ記の問題に関して、神から矛盾や理不尽という事に対して、どう信仰的に克服するかという意味合いでの命題が与えられているが、そういう意味合いで言うと、ユングも、遠藤周作も、正しい見解に至らなかった超難問と言えると思われる。
正しく物事を理解する必要がある。
私達は意識現象、表層意識という事があり、主観的、客観的、唯物論や真理の探求をしているのであるから、自己の意識現象から全ての物事が発足しているという事に気づくのだが、客観的、知識的真実とは、例えば、真理やその他数学や音楽その他において、他者と同一した観点があり、それにより客観的になり、知識においてもそれにより統一した見解から知識または、知識的真実を見いだすのである。
例えば目や耳
あらゆる感覚的機関においてやはり同一の機能があるので、それにより真実が見えてくるのである。
私達は、どれだけ真実という事を正しく見極めているのだろうか?
意志は、必然的に見いだす事と例えば因果律や人間関係から考察して分かる、善か悪、または、物や閃光などの屈折により、色が見える事、知識的な分析から統合したり、様々な事により、意志が発動しているのだが、時空列的に物事を見るならば、唯物的な物事が残るように感じるが、霊的、魂という事に目を向けるならば、なるほど、全ての物は、いつかは壊れたり、なくなるし、人の体においても、その通りと言える。
しかし、変わらない物もある。
魂は滅びないという事に気づく。
だから、聖書的な意味合いでの真実について、私達が理解する事は、大切な事であり、聖書に伝道者の書があるように、全ては、空であるが有でもあるとも言えるのである。
人は、神の似姿に作られただけではなく、霊が神だから聖書では霊と誠により礼拝しなさいとかかれている。
あくまでも、私が判断する物事は、聖書と哲学的な思惟から与えられた意味合いでの知的直感から考察しているのであるという事をあらかじめ断っておく。
もし、罪がなく、魂もなく、意識現象や意識がその本質というならば、それこそ、荒唐無稽な話しであると私は思う。
まず上述した話しからしたのは、人は肉体と魂があり、御霊と肉的行いがあるが、人は自己の意識現象から物事を捉えて生きているので、そういう意味合いでは、主体、客体という事はないと言えるのだが、同一した観点においては、そうではない。
だから人は、客観的に物事を知識においても知識的な真実、真理を求めるのである。
ここからが本題であるが、私達は上述したように
魂がある。
分かりやすく言うと心があるのだが、だから、愛とか悲しみとか、様々な感情があるのである。
釈迦様は、弟子のかしょうに対して蓮の花を示した。
これこそ悟りの答えであるのだと言うように諭した。
今回のヨブ記の答えという事に対してもこの事が重要な事であると言える。
けいげとは、わだかまりであり、
因果律で言うならば、罪がはらむと死ぬようにその発足は、矛盾、わだかまり、虚無、堕落が関係している。
本質的には、罪という事が問題となり、矛盾が生じ、けいげ、わだかまりが生まれ、分裂が生じるのであるが、では、般若心経が言うように全てが空と悟ると言う事が色即是空と知る事により私達が矛盾を解決し得ると教えるならば、それは思慮が足りないと言う事になる。
よく考えて見て欲しい。
この世に神がおられこの世は、闇の世であり、サタンの王座であるという事は、神が望まない、神の国と隔たりがあるわだかまりが生じているという事になる。なのになぜ神は、善というアイデンティティーを保てるのであろうか?
神は、愛であり、
その逆が悪であり、偽りであるとしたならば、神は、怒りに飲まれて忍耐したとしても何らかの倫理的体系が神になければ、その善性を維持できないのである。
聖職の任務につく者は、この事を理解してなければならない。
お釈迦様は、わだかまりを無とせよという事ではなく、
意志には、目的や道理があり、その道理を見極めてから空とせよと説いたと私は理解している。
何故ならば人は神と同じく心があるからだ。
例えば愛する人が殺されてしまう事もある。
矛盾した事は多々あるが、これらの解決なくしてのわだかまりをなくすという事は、主イエスが言う。 私は道であり、真理であり、命という事から離れている。
あくまでも人の心の、蓮の花の維持には、倫理的、真理的な答えがなければならないし、矛盾に関しても聖書の神からの答えを模索しなければならない。
それがないならば、福音宣教をする事もできなくなる。
伝道とは最大の愛であり、神との関係が強化されない限り為しうる事はできないからだ。
だからヨブ記の答えについての考察をしているのである。
遠藤周作は、黄色い人という小説を書いたこの物語は、戦争の時に祭司であった自分の妹が陵辱されて祭司自身は、死ぬという事で矛盾を放棄するという内容であった。
ユングは、神より一時的にヨブを偉大として物事を理解した。
なぜ過ちを犯すのか?
それは正しさ、正義という事の視点で人は、物事を、聖書を読んでおり、人の視点で見るという事に執着しすぎて、神が教えようとしている視点が見えていない。
上述した事からハマルティア、的外れになった解釈をしているか分からないから問いかけたりしているのである。
あくまでもユングは、正しさという視点で物事を見るし、遠藤周作も矛盾という事と正しさという事に視点を向けているが、人の罪という事が今回の矛盾を生んだという事に関して全く触れていないし、その事がヨブ記が書かれた神の意志であり、その主イエスの意図を汲み取っていない。
罪に関して、大きな意味合いで言うならば、主イエスが地震で人がなくなった時、善人、悪人関係なく、このような事が起きると言ったように、全ては罪の結果、抽象的に矛盾が生じおり、だから、そういう矛盾があっても、神を信じることの大切さをヨブ記で教えているのである。
重要な事は、世の中が悪であり、矛盾があっても、太陽と恵みの雨をもたらす神は、変わらず善である。
善き神であり、十字架の神性は、人の中にも輝いて現存しているのである。
人は、断片的に物事を見るが、歴史的に聖書を見ると神への背き、裏切りを人が先にしており、神との断絶から、このような神が、人を試すような、必要が生じたのであるから、答えは、罪が派生した結果にヨブ記が生まれたと言える。
しかし、主イエスの十字架の愛こそ、真実であるが、罪からのわだかまりの解決は、結局人の罪に関しての深い理解によってしか解決しないのだと私は思う。
捕捉として書き足しとくが、あくまでもグノーシス知識が救いをもたらすのではなく、信仰により行い信仰義認された結果、私達は、救いの知識を神から与えられて、聞いただけでなく、信じて口で告白した時、救われた者とされているのであり、これは、ただ、ただ、神の恩寵であるが、計画による救いから的外れているならば、悔い改めたり、修正が必要なのであるが、これも救いの一貫なのである。
主イエスを、信じるならば、私達の心の蓮の花は、いつも輝き、知の塩、世の光として輝き始めます。
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