私が思うに牧師や聖職の任務、に就任している人は、欲があってはならないと思う。
願望という事も徳を孕んでなければならないというのも、徳とは神の理から離れてなされるものではないからだ。
願望という事は、悪い事、欲、良い願望がある。
良い願望とは、例えば医者になろうとした時、大きな病院を建てようとした場合、それが自分が病を経験して医療で治ったから、世の中の人に貢献したい。
または、黒人の父と言われた医者のシュバイツァーのように神の為に、世の中の為に、願望を求める事は、良い事なのである。
しかし、信仰の父アブラハムのように最初から優れた人物であるひとは、少ないので、大概そこに肉的な欲求が生じてしまうから注意が必要である。
特に牧師とは、人々をあらゆる悪意や過ちから正しい神の道へ導く、指導者であるから、貪欲であってはならない。
そもそも、良い貪欲という事はあり得ない。
神が欲求する所、度合いにより、執着心も強くなるのであるから、節制、自制が必要である。
良いパン種は、霊的な人に宿り、聖霊による働きとなるが、良い働きをしようとしても、悪きパンだねが育ちやすい貪欲や、けちな生き方は、御言葉を受けれなくなり、自己のヒューマニズムやパトス情念が増えて行き、それにより、聖書を曲解してしまう可能性が高い。
無償で与える人は、大概、麗しき事によりする人が多い。
利害損得がないので、こういう人が牧師となると良いと思う。
また、寬厚な人は、執着心が薄い人であるとも言える。
この事が牧師にとって重要な意味合いを持つ、牧師とは、主イエスの為に働くのであるが、例えば性欲にしても何故こんなに欲求が強いのかというならば、それが子孫繁栄という神側が人間に求める事において大きな願望を伴うからである。
ましてや、牧師とは、誤った観念を持ち、神から離れている迷い人を倫理的な意味合いに於いて導くのであるから、その役割は、神側に於いて重要な事柄であるから、人に求める神からの願望がもっとも高いので、逆に言うならば、牧師は、執着や貪欲に陥りやすいのである。
例えば、バプテスマのヨハネは、主イエスにあっさりとその役割を譲る事ができた。
モーセにしてもヨシュアとカレブがカナンの地に入る事を容認したのは、どちらも主イエスの与えられた役割に対して一生懸命であったが彼らには、貪欲や悪魔の誘惑がなかったし、本当に純粋な信仰の持ち主で神の従者であったから、執着したり、貪欲から守られていた。
老年となり、退任を求められる場合、また、病気となり、能力不足となり、退任しないとならない場合、祈り神に従えない人が多い。
そのイスに執着してしまうのである。
また、自己の過ちや悔い改めという事は、利己的であるほど難しいが、案外牧師とは、悔い改めが必要な仕事でもある。
そして、大きな教会ほど豪華という事に対して過ちを侵しやすい。
金と富の問題を正確に理解しないとならない。
だから今回豪華という事について解き明かしをしている。
この問題により、悪魔にやられる牧師使徒は、多いとおもうからだ。
豪華なお金の使い方が悪いという事ではない。
しかし大きな教会となるならば、豪華という事に於いて罪にならないようにしないとならない。
例えば大金持ちで一家5人、父、母、子供3人いたとしよう。
母は、お金を使う時、どうあるべきか?
悪い妻ならば、バックやら服やら必要もないのに、沢山持ち、その上けちである。
その上、子供の養育費や生活に関しての役割に怠惰で豪遊する人がいる。
また、自分の富を誇示するが為、見栄の為に富を所有してけちな人もいる。
富や名声を誇示しようとしてしまう。
そういう人が牧師である場合、彼は、古い人、肉的な人であり、新しいキリストの身体を所有しない人であり、地の塩、世の光と対照的で利己的で自己中心的でかつ醜い人である。
牧師は、教会でもっと目立つ存在である。
福音宣教とは、語る、伝えるという事だけではなく、その人の生きざまが、もっとも重要な事であると私は、最近思うようになった。
主イエスのような、預言者のような人であるから人は、その教会へ行くのである。
執着心が強い人は、わがままであり、理に反する時があるので、聖人と真逆で子供のような人に見られてしまうので、
そういう人が人を導けないので、そういう人を聖職として認めてはならないと思う。
また、そういう人は、誤って聖書を理解してしまいがちであって、それを改められないというのも、利己的な人は、聖霊に反する事が多いし、信仰に徳を積むという事は、良い行い行動があり、成り立つので、信仰によらず自己の意思で生きる人が、良い行いをしたとしても、他者の為に利害損得なしにしない場合が多い。
良い事をするとしても、例えば教会で長老となり、自己を誇示するために教会で奉仕するとか、青年ならば、支配従ったり、モテたいなど動機が不純であるならば、そういう言葉がでるので、そういう人に重要なポストを与える事は教会の為にも神を信じてない人のつまづきとなるのである。
主イエスは、自分の命を捨てて御冠をも捨てたのは、人類の救済の為である。
十字架の愛、神の愛を仰ぎ見るならば、つまづき事はないと私は思います。
今日は、寬厚、豪華、貪欲、けちという事の話しをしました。