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ミッションノア

教会での、学び会や説教がどうあるべきか

吉さん

教会での学び会や説教がどうあるべきか

ディーリット・リッチュル牧師の見解では、初期キリスト教会では、厳密に聖礼典や犠牲、奉仕関しての定義と言う物を聖書を、読み定める事は難しいという。

しかし、私達が礼拝に於いて教義学や真理、倫理に於いて主イエスキリストが初期のキリスト教会のしてきた行いを模倣するという事により、説教や兄弟姉妹に関しての、対応を学びとろうとする事を言っているが、これも難航している部分があると吐露している。


何故ならば、教会とは、集会、集まりという意味合いで形成されたし、本来典礼は、奉仕活動という事が儀式的になったし、本質は、真理探求、教義学やキリストの誇りや奉仕、その善意から成り立つからだ。、ジャンカルバンは、制度や教会制度を、教会の血液と言っている。

マネージメントも、大切な事といえる。

しかし、これらは聖書から鑑みて行いを模倣する意味合いでの健徳という事がなされなければならない。


しかし、模倣が必ずしも現代のキリスト教の交わりに適用できるのかというと難しい問題がある。

コリントの手紙を読むならば、交わりで初めてきた信徒は、罪を糾弾され、暴かれ、恥ずかしめられて、十字架の前に跪くという事がなされているが、パウロが仕える者となるがいうごとく、教会では、ストレートに、初対面の方の心の在り方なしに、聖書通りに、信徒を俳優のように、主役として、積極的に奉仕を参加していただくという事はできない。


礼拝と、教会での信仰生活とは、聖書を読み、神の愛、罪の理解、救いに対しての感謝から為される行為であり、信徒といっても、人によって20年後に上記のように、自発的な信仰者となる場合もあるし、大概初めは、教会へ聴講に来ており、傍観者であり、受動的である場合が多い。

聖書では、積極性が求められ、一人一人が万人祭司であり、キリスト教は、教義や、真理、ロジックを教会の預言や書物から鑑みて、主イエスが教会に指導したい事、求めておられる事を成すという事が正しい見解であると言えなくもないが、

これらは、あくまでも信仰に入った熱心な信徒の場合に書いてあるのだ思う。

集まりであるエクレシア、教会は、預言から学び、徳を積み、成長する事を求められるし、また、牧師は、羊が罪を犯し、道から外れないように見守る必要がある。

話しは、戻りますが、教会で教師、リーダーが、どう教えるべきか、テモテを読むと分かりやすいと思われる。

1、

テモテへの第一の手紙 1:5 口語訳

[5] わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。 


テモテへの第一の手紙 2:7 


[7] そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。


また、律法の教師であるとも言っているし、これらは、預言により、確実なものとされていく、

預言は、教会の徳を高めるとあるからだ。


義と平和は、互いに口づけしている

義の反対は、不正であり、平和の反対は、不和であり、一致の反対は、分裂である。

宗教とは、一つに結ぶ一致という意味合いもある。

キリストの身体として一致させる為には、教えが不可欠である。

よって、初めての人に合わせるというよりも、分かりやすく上述した事を成すという事をする必要がある。

初めての人が聞いて聖化するし、興味があれば質問してくると思う。

教えが、聖書から、逸脱してはならないし、聖書から外れた哲学的な話しとなってもいけない。

教会は、初めての人への簡単な教えを作る必要がある。


また、教える人は、無知であるという事を知るということ、知らない事を知らないという事も大切である。

それを認めて、時に白旗をあげる謙遜さが必要となる事もある。

上述した事は、プライドや個々の教師だけで問題を解決しようし、間違える事を防ぎ、一致して問題を取り組む事により、愛が深まり、教えるという事により、教わるという事の訓練にもなりうる。

教えるには、聖書を深く理解しないと出来ないからだ。


だから新任の牧師は、私も経験あるが、経験豊富な、牧師や長老とディスカッション討論すると良いと私は思う。

これは、年輩となっても必要な事でもある。

一人の理解だと間違いを犯す事が多々あるからだ。

牧師や伝道師ならば役職同士で聖書を語り合う仲間が必須である。

任せる場合、まず教育する必要がある。

ウエストミンスターを読む事も良いと思う。

長く信仰生活を送る、信徒でも聖書を間違える場合もある。

70位の長老に近い信徒も律法に関して誤った理解をしていた事もあった。

聖職の任務につく人が厳しい裁きがあるのだから、罪や聖書の過ちについて敏感に察っちしないとならないし、学びでは、視点を変えた意味合いでの臨機応変に教える練習や訓練も必要となる。

また、哲学的な事に対しての質問に関して、キリスト教と哲学に対する事は違う分野であると教師は、誠実に話す一方、話し手が聖書に関して哲学を用いて話してくださる場合、また、他の事柄から比喩で話してくる場合、教師は、聖書的に合致しているかを判断しつつ、その人に話しをして頂く必要がある。

そうしないと学びに制限がなされ、窮屈となるからだ。

だから、リーダーは、聖書をよく理解している人でないとならない。


こういう事は、一緒に牧師がいて質問に困った時に対処する必要があるが、残念ながらこの対処が出来ない人が多い。

また、対処出来る、牧師や宣教師がなかなか育たないと私は感じる。

また。福音宣教に於いても、上述した能力が必要とされる。

こういう訓練は、時間も労力も掛かると経験上私は思う。

何よりも、聖霊の助け、

神の霊感に優れた人が為す必要があると感じる。

今日は、礼拝と教会でなにをすべきかについて書きました。

牧師や、聖職者で貪欲、守銭奴けちであってはならない理由と豪華で費やすという事について

吉さん



私が思うに牧師や聖職の任務、に就任している人は、欲があってはならないと思う。

願望という事も徳を孕んでなければならないというのも、徳とは神の理から離れてなされるものではないからだ。

願望という事は、悪い事、欲、良い願望がある。

良い願望とは、例えば医者になろうとした時、大きな病院を建てようとした場合、それが自分が病を経験して医療で治ったから、世の中の人に貢献したい。

または、黒人の父と言われた医者のシュバイツァーのように神の為に、世の中の為に、願望を求める事は、良い事なのである。

しかし、信仰の父アブラハムのように最初から優れた人物であるひとは、少ないので、大概そこに肉的な欲求が生じてしまうから注意が必要である。

特に牧師とは、人々をあらゆる悪意や過ちから正しい神の道へ導く、指導者であるから、貪欲であってはならない。

そもそも、良い貪欲という事はあり得ない。

神が欲求する所、度合いにより、執着心も強くなるのであるから、節制、自制が必要である。

良いパン種は、霊的な人に宿り、聖霊による働きとなるが、良い働きをしようとしても、悪きパンだねが育ちやすい貪欲や、けちな生き方は、御言葉を受けれなくなり、自己のヒューマニズムやパトス情念が増えて行き、それにより、聖書を曲解してしまう可能性が高い。

無償で与える人は、大概、麗しき事によりする人が多い。

利害損得がないので、こういう人が牧師となると良いと思う。

また、寬厚な人は、執着心が薄い人であるとも言える。

この事が牧師にとって重要な意味合いを持つ、牧師とは、主イエスの為に働くのであるが、例えば性欲にしても何故こんなに欲求が強いのかというならば、それが子孫繁栄という神側が人間に求める事において大きな願望を伴うからである。

ましてや、牧師とは、誤った観念を持ち、神から離れている迷い人を倫理的な意味合いに於いて導くのであるから、その役割は、神側に於いて重要な事柄であるから、人に求める神からの願望がもっとも高いので、逆に言うならば、牧師は、執着や貪欲に陥りやすいのである。

例えば、バプテスマのヨハネは、主イエスにあっさりとその役割を譲る事ができた。

モーセにしてもヨシュアとカレブがカナンの地に入る事を容認したのは、どちらも主イエスの与えられた役割に対して一生懸命であったが彼らには、貪欲や悪魔の誘惑がなかったし、本当に純粋な信仰の持ち主で神の従者であったから、執着したり、貪欲から守られていた。



老年となり、退任を求められる場合、また、病気となり、能力不足となり、退任しないとならない場合、祈り神に従えない人が多い。

そのイスに執着してしまうのである。


また、自己の過ちや悔い改めという事は、利己的であるほど難しいが、案外牧師とは、悔い改めが必要な仕事でもある。


そして、大きな教会ほど豪華という事に対して過ちを侵しやすい。

金と富の問題を正確に理解しないとならない。

だから今回豪華という事について解き明かしをしている。

この問題により、悪魔にやられる牧師使徒は、多いとおもうからだ。

豪華なお金の使い方が悪いという事ではない。

しかし大きな教会となるならば、豪華という事に於いて罪にならないようにしないとならない。

例えば大金持ちで一家5人、父、母、子供3人いたとしよう。

母は、お金を使う時、どうあるべきか?

悪い妻ならば、バックやら服やら必要もないのに、沢山持ち、その上けちである。

その上、子供の養育費や生活に関しての役割に怠惰で豪遊する人がいる。

また、自分の富を誇示するが為、見栄の為に富を所有してけちな人もいる。

富や名声を誇示しようとしてしまう。

そういう人が牧師である場合、彼は、古い人、肉的な人であり、新しいキリストの身体を所有しない人であり、地の塩、世の光と対照的で利己的で自己中心的でかつ醜い人である。

牧師は、教会でもっと目立つ存在である。

福音宣教とは、語る、伝えるという事だけではなく、その人の生きざまが、もっとも重要な事であると私は、最近思うようになった。

主イエスのような、預言者のような人であるから人は、その教会へ行くのである。

執着心が強い人は、わがままであり、理に反する時があるので、聖人と真逆で子供のような人に見られてしまうので、

そういう人が人を導けないので、そういう人を聖職として認めてはならないと思う。

また、そういう人は、誤って聖書を理解してしまいがちであって、それを改められないというのも、利己的な人は、聖霊に反する事が多いし、信仰に徳を積むという事は、良い行い行動があり、成り立つので、信仰によらず自己の意思で生きる人が、良い行いをしたとしても、他者の為に利害損得なしにしない場合が多い。

良い事をするとしても、例えば教会で長老となり、自己を誇示するために教会で奉仕するとか、青年ならば、支配従ったり、モテたいなど動機が不純であるならば、そういう言葉がでるので、そういう人に重要なポストを与える事は教会の為にも神を信じてない人のつまづきとなるのである。

主イエスは、自分の命を捨てて御冠をも捨てたのは、人類の救済の為である。

十字架の愛、神の愛を仰ぎ見るならば、つまづき事はないと私は思います。

今日は、寬厚、豪華、貪欲、けちという事の話しをしました。

良心があると言って、願望という事にのみ、真実を求めて良いかという事に関して

吉さん



人には、神から与えられた良心というものがある。

しかし、フロイトがエディプスコンプレックスや、イドという精神的構造について、話しているように、人は悪い感情、良い感情がある。

コンプレックスやイドとは、理性に相反するだけでなく、わだかまりを起こす。

コンプレックスが強いほど、その克服は非常に難しい。

失恋なども理性とイドの関係が大きく関係する。


だから、願望という事が徳に即した善であると言う事はできない。

では、願望と言っても例えば将来医者になりたいとか、善にもとずくであろう願望が、主イエスからの使命であるかと言う事に関して、人は家族周囲の倫理や性格により、影響を受けるので、短絡的に願望が正しいと言う、判断をする事は困難である。

キリスト教的には、願望と言う事が、悪や罪と関係がないのならば、それに関しての追及はないとしても、善悪関係なくその人の動機が善ではなく例えば、誰かに認められたいとか、作品を作ったとして名前を残したいという肉的な欲求により願望を為すと言う事は、独善的で自己中心的である結果、その人格も悪い人格となりうる場合があるし、そういう生き方は、偶像崇拝的で、頑くな思いや、そうでない善に思える願望も、それに固着した心のあり方に関して、改善しないと悪に転じる形となる。

だから、徳に即した願望であっても理、主イエスの律法、神の掟を良く学び、良く熟慮して、物事を判断しないと、その願望が聖書の御言葉と合致しなくなり、結果周囲から非難されたり、客観的でなくなるようならば、その人は道から反れていると言える。

今回は、願望とは、徳に即した善でなければならない。

徳とは中庸であり、真実であり、徳と言う事にことわり

が不可欠であるから、徳に即した善が願望となるならば、例えばその、行いが道理から反れなくなる。

人が、主イエスに喜ばれる生き方が出来るようになると言う

話しをしました。