神の道に関しての考察
私達は、思惟が先か意志が先か知識が先か分からぬが、これらにより経験を積み善意、悪意関係なく、人の人格が形成されていく。
世界の創造主、主イエスは私達を肉体と魂に分けて創造された。
聖書によると、人類は神の似姿に作られたのだと言われている。
だから、人は、食べるだけでは満足せず、生きる意味が必要であるし、人は考える葦とも言うが、人が人として生きるには、何がひつようなのか?その答えを模索し探求し続けるのである。
ところで、純粋経験なる経験は、神であられる主イエスによりて与えられる場合もあるが、そうでなく過ちもある。
しかし、知識的真実に到達した知識は、真理の答えであり、思惟や知識によりて、知識的真実に到達した状態でもある。
私達は、謙遜でなければならない。
神により頼む必要がある。
気をつけていかないとならないのは、知識的真実とは、純粋な経験故に明らかとなると言っても最後は、神から与えられるのである。
初め意志ありて、思惟から知的直感が天から与えられて、意志は真実を自覚するという事である。
意志には目的があり、その目的には、善、悪とある。
その本質は、肉的であり、または、御霊である。
自我と理性との関係が人にはあり、意志が個人的な判断ともとれるが、本質的には、神の性質を受け継いだ結果、人は善意、悪意を持つのである。
意志や純粋な経験がその人の一部を人格作る。
だから純粋なる経験により多方面においての、真実に到達すると言う事は事実であっても、客観的事実は、その整合性において正しく統一された状態の時が悟った状態である。
または、そうでなく、シンプルイズザベストであり、合一である場合もあり得ると思うが、
基本的には、統一した結果に物事が決定する。
悪意という事においても純粋に経験する事によりて、客観的に考察された結果、人の意志、神からの知的直感により、明らかにされてから、悪意となるが、神から与えられた良心という事と知識的考察があって人は、善意と悪意を見分ける。
本質的に悪意も善意も一般不変で変わらない状態であり、これも真理とも言える。
忘れてはならないのは、神の掟を守る事により自我が消滅する。
人は、神の掟を見いだし神の意志と迎合しインマヌエル神が共にいる状態ならば、善意や悪意という事に捕らわれない。ブドウの木である主イエスにつながり、神の掟を見いだす人は、自我を捨てる事に成功する。
サタンは、アダムとエバに神より賢くなる木を食べるように誘惑したのは、神との断然なのだから、私達は神を畏れ敬うのだが、
神から離れた善悪、ヒューマニズムは、罪である事を、付け足しておく。
いづれ信仰が成長するならば、この事に気づいて、この事が必要となる、信仰者も現れると私は理解している。
神を愛し、隣人を愛する事の弊害が自我であるが、神の掟を見いだすならば、人は、中道の道、神の道に至り、もろもろの弊害を吹き消す事に成功するのである。
ところで、聖書で律法が与えられたように、真理は、神から与えられるが、義人は、信仰によりて、真理に達する事もあるといっても、御言葉をその人は、無意識に純粋に守った結果なのである。
律法ありて、人は、存在しているというのは、神は、御言葉であり、命であり、御言葉が私達の心のかでであり、心を満たす食物だからである。
ところで知識的真実、知と意の合一は、釈迦が言う悟りともとれるが、その過程とも言える。私達が己という事に対して心があり、肉体があるとしても真の己、本来的自己という事に至るためには、意志を持ちその何らかの意志の目的が不完璧で思惟し、神から知的直感が与えられ、
その知識から知識的真実を見極めてその意志が神と迎合して為し得た時に、人は、それぞれ、主客合一に至り、満足するのである。
その理由は、神が共に歩むという事と関係している。
神の人となる過程において、それが必要なのである。
デカルトは、余は、考う故に余ありという。
ベーコンは経験を持って全ての知識の本という。
聞くだけではなく、行う時に人は、真実に到達するだけではなく、信じて口で告白したときに、信仰により行い、聖霊と愛とが心と、魂を満たし救われて行くのである。
では純粋経験があり、全て知識的真理へと達するならば、それが真理であるとして、経験の全てが、神から意志が与えられ、それは本来的目的があるとして、真理への真実に到達したならば、良いとしたとしても、それでは経験こそ、神であり、真理なのかというならば、そうではない。
神ありて純粋経験により真実に至るのである。
神から私達は、思惟や意志が与えられているが、それには本来的な意味合いがあり、すぐに到達できる事ではない。
それゆえ人は、迷いの森に迷うのである。
知識的真実、真理への渇望、神の人となりたいという事があって人は、思惟したり、意志が生じるのである。
しかし私達には、弱さがあり、死への恐怖、様々な肉的な罪によりて、罪から来る報酬が死ぬというように、ハマルティア的外れをおこすのである。
よく思春期の子どもがウジウジして内向的であり、怯えて社交的でなく精神的にやむがこれは本来的な目的を求めても、意志も、精神的にも、未熟なので、解決に至らない状態である。
本来人は、正しく物の道理を見極めていかないとならないが、それと平行して、分からなくてもあきらめずに待ちつづけて、迷いあるなかにも知的活動が阻害されないように歩まなければならない。
恋愛が全てで学業をおろそかにしたならば、全てを失うように、大切なことは、諦めないという事と自分に与えられた生き方や理解のまま真理を神に求めつづけて生きることである。
神を恐れる人は、罪を犯さないようにする。
神は、善なので罪を犯すならば真実に到達しないからである。
私達は、感覚的欲求により意志が生じるが、それとは違う肉体を越えた永遠無限不変であり、質量にとらわれない意志という事がある。
真理的考察や本を集中して読んだり主客合一した状態に至る時には、罪が支配しないが人は、罪人なので短絡的な欲求を制御できず堕落すると罪となる。
それ事態目的があり、秩序を持つならば悪意でなくとも、その欲望が他者を傷つけ、神よりも頼りとなり、
偶像崇拝となるとき、人は、罪に至り、悪魔の誘惑により罪が確定してしまうのである。
意志と言っても、肉的な思いと霊的な思いが違うように意志も制御されなければ悪意となり罪ともなる。
例えばあなたに悪い事をしたからその人を傷つけるか?
それとも許すか?
しかし許す事がその人のためであるか?
時にむちも必要であるか?
その判断は、主イエスから来る知的直感、聖霊による波動により明らかとなるというのもその人には、時があり、その相手に対してどうするかの判断は、人間には、わからない場合もあるからだ。
善意、悪意の他者への愛、自己愛などトータル的な行いの結果、その人の人格も影響される。
しかし、例えば聖書にあるように賜物という事がある。
音楽の賜物狩りをする、賜物神殿建築の賜物があり、継続は、力というが、これは神から与えられた人格でもあるので、行いが人格と言うことはできない。
要するに救いは計画による物であるが、行いへと至る人が本当に救われた人なのである。
今回はかなり難しい事を語りましたが、行いのない信仰はないのである。
最近わたしは、行いが、真理を明らかにする媒体であるとも、私は思うのである。
人は、神から与えられなければ真実に到達しない。
十字架の道、それは真実の道であり、知識は行う時その人の為となるのである。
※ 捕捉としてどう捉えて読むかというならば、私達の心のあり方について何となく理解して見てください。それが有益となると私は思います。
また、1.祈り、2.思惟して、知的直感が神から与える3.純粋に経験する。
4、御言葉が与えられる。5.御言葉の3形式
によりそれが事実か調べる。
聖書の御言葉と神の示唆により知識的真実、真理として認められるか教会または、クリスチャンが聖霊により参議して、初めて答えが与えられる。
ウエストミンスター小教理問答などもかなり参考なるだろう。
これらの事により信仰により、真実に到達する必要があります。
私が知る限り多くのクリスチャンが自己都合の聖書解釈をしてしまうのは、悪魔の罠にはまるからである。
すると、何もしなくても救われるとなるのである。
主イエスを信じるあなたは救われます。
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