良心があると言って、願望という事にのみ、真実を求めて良いかという事に関して
人には、神から与えられた良心というものがある。
しかし、フロイトがエディプスコンプレックスや、イドという精神的構造について、話しているように、人は悪い感情、良い感情がある。
コンプレックスやイドとは、理性に相反するだけでなく、わだかまりを起こす。
コンプレックスが強いほど、その克服は非常に難しい。
失恋なども理性とイドの関係が大きく関係する。
だから、願望という事が徳に即した善であると言う事はできない。
では、願望と言っても例えば将来医者になりたいとか、善にもとずくであろう願望が、主イエスからの使命であるかと言う事に関して、人は家族周囲の倫理や性格により、影響を受けるので、短絡的に願望が正しいと言う、判断をする事は困難である。
キリスト教的には、願望と言う事が、悪や罪と関係がないのならば、それに関しての追及はないとしても、善悪関係なくその人の動機が善ではなく例えば、誰かに認められたいとか、作品を作ったとして名前を残したいという肉的な欲求により願望を為すと言う事は、独善的で自己中心的である結果、その人格も悪い人格となりうる場合があるし、そういう生き方は、偶像崇拝的で、頑くな思いや、そうでない善に思える願望も、それに固着した心のあり方に関して、改善しないと悪に転じる形となる。
だから、徳に即した願望であっても理、主イエスの律法、神の掟を良く学び、良く熟慮して、物事を判断しないと、その願望が聖書の御言葉と合致しなくなり、結果周囲から非難されたり、客観的でなくなるようならば、その人は道から反れていると言える。
今回は、願望とは、徳に即した善でなければならない。
徳とは中庸であり、真実であり、徳と言う事にことわり
が不可欠であるから、徳に即した善が願望となるならば、例えばその、行いが道理から反れなくなる。
人が、主イエスに喜ばれる生き方が出来るようになると言う
話しをしました。
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