noah777のブログ

ミッションノア

神の道を歩むためには

吉さん



三結と言う教えがある。

三結とは、

1.有身意、五感と感覚的な物事を自我と判断する事

2.教えを疑う事

3.誤った戒律や、禁制

の事を言う。

自我を自己とする事を悪の萌芽と見る考え方であり、実態は、真理の光によりイデアが現されると理解すると分かりやすいのではないかと感じる。

人類最初の祖先アダムとエバの内エバがサタンにそそのかされて善悪の知識の木の実を食べて神と断絶した。

人は、罪を背負う事となり、チリへと帰る事となったが、主イエスを信じる信仰により救いが実現した。

人の完成と言う事は、計画による救いによる事であるが、人が罪を犯すとは、何かを知る必要がある。

自己の功績や栄誉、また、五感から生じる思いは、自己そのものではなく、そう思い自我に執着する人は、主イエスの掟を守ろうとしていないので、自己の思いにしたがって生きてしまうがそれにより恐怖が生じる。

愛は、罪を覆い、罪は、恐怖を生じるさせる。

さて、人には大きく分けると二つの生き方がある。

神の我、真理に従い生き、その観念と自我が合致する本来の自己により生きる方法


快楽や感覚的な欲求、本能のままに意思を持ち臆見し、自我により選択して生きる方法

私は、ブドウの木であると主イエスは言う。

永遠の命である主イエスに従う事が永遠であり、神との和合インマヌエルする唯一の方法恵みである。

人は、自己の本性を変える事はできない聖書には、賜物とあるし、琴を引く者、建物を建てる者、それぞれの本性があるという。

当然ながら、いやな事でも慣れれば良い事となる場合があるが、そうなが続きしないし、バラが好きなのに、すずらんが好きなのだとはならないのが人間である。

しかし、善悪と言う意味合いにおいては、それぞれ違いは、あるが、

道徳的に人は、何が悪いか、正しいかは、教育されれば分かるというのも人には、神から与えられた良心があるからだ。

しかし、良心があると言え、聖書のエノクのような聖人君主のような存在は、ごく稀であるから、人は、真理を探求する必要がある。

そして、道徳的な生き方は、正しい習慣づけにより、人格をも改善する事が可能である。

人格が変われば、良い運命を手にする事もできるというよりも神により多く必要とされる人となれるという

所々真理を端初として

人は、端初に向かうと言う事初から初めるという行為をする中で端初が真理だとしたならば、それに付け加える事はなくとも

向かう場合は、様々な考察が必要となる。

例えば、酒という物事は、良く教会で良い、悪いで揉める事が多い事柄であるが、酒という善は、何か人を陽気にさせ苦しみを改善する。

悪い所は、依存性や飲み過ぎによる不貞行為などであるが、

端初に向い判断するならば、

人の心の堕落、中庸、理性的というあり方を考察した時、人により違うとなるが、酒宴と言う端初からの考察では、いかなる結論も御言葉の酒宴は、ダメであると言う事に制限とか大なり、小なりと言う観念は、存在できない。

このように向かう場合に幅広い考察があっても、そこから考察する事ができないのは、真理と言う初めであり、終わりを見て考察するからである。


だから、真理の道は、迷いでもあり、その探求の道は、険しい物であると言える。

このように書くのは、人が迷いの森に惑う状態では、完徳の道主イエスを信じたと言う事に至らない。

例えば勇敢な人の定義とは何であろうか?

1.2.3.と考察したとする

1、恐怖

2.勇敢

3.平然

としたとしよう。

しかし神であられる主イエスは、善であり、だから、人は、徳を積む事を望むのである。徳を積む行為とは、中道であると私は言って差し支えないとおもうが、勇敢と言う端初、があり例えばある人がわがままに周りの迷惑関係なく、図書館で音楽を聞くとする。

悪い勇敢者と定義し、もう一歩が義憤を持ち勇敢に注意したとする。

神は、正しい人の勇敢を為すとして悪の勇敢を為す者は、周囲から攻撃され彼の勇敢な行為は、恐怖へと転じる。

冒頭でかいたように主イエスの神我により生きる勇敢という事、情念や肉的な罪から自我により産み出される勇敢という事、事態が、良い悪いという観念からの方法、選択においてかなり違うという事がわかる。

例えば、賛美としても出所が自我の音楽性か、神への賛美なのかという事で精神的な意味合いでの罪と罪でないという事が心の中で行われている。

神との断絶、掟から離れないならば、それは信仰から得た徳であり、有益となるし、神との親密度合いがました結果、老人は夢を見て若者は、預言を語るようになるのである。

だから、人類には、神の掟、律法が必要であるし、真理を勇敢と捉えたとしても他の端初が未完成で神と迎合しないならば、それにつまづき、完全な徳に至らない。

主イエスの十字架、パウロが福音を、伝えるためならば、エルサレムにおいて、死ぬ事さえ覚悟に至ると言う事は究極の善、神性を帯びた、アガペーの愛である。

しかし、それが出来ないとしても、私たちは、どのように生きる事が神の御心であるかを知

る必要はある。

方法が分かる必要があるとおもう。

また、罪について、罪とは、主イエスを信じない事、自我やヒューマニズムにより、神から離れて生きることである。

罪とは、神との断絶と言う意味合いもあるし、原罪と言う意味合いもある。

人にとって一番大切な事それは、主イエスを信じて、神の道を知ると言う事、そして、信仰には、徳を積むと言う事である。

信仰により行うという事である。

行いのない信仰が無益であり、知識は人を高ぶらせるのであるから、中道、神の道を歩む必要がある。

確かに信仰とは、行いではない。

信仰とは、信じて口で、その言葉を告白して、為す事を総称して信仰と言う。

信仰によらないならば、愛がないならば、それは徳を積むと言えず、それは自我により貪るとか執着し、自己の功績を誇るという事に陥るのである。

例えば、自分の命さえ捨て、作品を肯定する。

神ではなく、作品完成がその人のすべてとなっている。

人の罪の現れ方は様々であるが、その人は、中道、神の道から外れて、過度すぎたり、弱すぎたりしてしまう。

大切な事は、習慣であり、方法とその選択であるが、正しい方法こそ重要である。例えば、目的地に行くために地図を使う人、方位磁石を使う人様々としても、誤った方法で誤った地図、方位磁石で向かっても選択しても真実に主イエスの真理に到達しない。

だから主イエスを信じ、善悪と言う判断において牧師の存在は、重要であるし、何よりも神の御言葉に聞き従う事が重要である。

神を訪ね求める人は、すべてを悟り、神を畏れる事により何が間違いなのか、何が良いかを人は知る。

しかし細かい判断は、最終的には、預言なのである。

現在、過去、未来において聖書は、完成された書物であり、古い新しい書物である。

人のすべての問題解決は、主イエスをいかに知るかにあるが聖書は、その答えそのものである。

神を求め、真理を探求する人は、良いクリスチャンであると私は思う。

残念ながら、自我の欲求の為神を利用する者もいる。

そういう人は、情念パトスという事と、神の道が分からない盲人だからである。

今日は、様々な書物から信仰生活のかでにして欲しいと思い投稿しました。

聖書の学び