noah777のブログ

ミッションノア

御言葉の3形式で一番大切な事

語られた、書かれた、啓示された、御言葉が真実であると確認する方法について、

信仰の父アブラハムは、聖書を持ってはいなかったというのは、周知の通りである。何故ならば死海文書は、アブラハム以前ではなく以後に聞かれて書かれたのであるから、啓示されて、約束の地へ向かい、信仰により後のイスラエル、神の民の子孫、信仰の父となったというのは明らかである。

計画(神の啓示)、信仰による行い、書かれた聖書(証言に対しての立証)チェック、これにより、聖書が神の霊感により選ばれた神の言葉を預かる預言者たちにより、神証言が文字として書かれた御言葉として確立され、不動の地位を得たその真理を洞察し、信仰により、聖霊により語られた事が、説教された御言葉という事で間違いないであろう。

しかし、今日定義された問題は、そう簡単に御言葉の整合性を語る事は、出来ない。

しかし、御言葉の整合性が立証されるという事は、人類にとって素晴らしい神の恵みであり、この事が立証される事から教会は始めなければならないと言っても、過言ではない程に、大切な事であると言えよう。

何故ならば、全人類の罪を赦し、罪から来る報酬である死からの解放は、キリストの十字架により成就したのであるが、もし、3位1体が過ちであり、十字架の救いが間違いであり、さらに復活もないのだとしたとしたならば、神を信じるということが無意味なように、聖書理解が間違いであり、その過ちが、沢山あるとしたならば、その人は真実に到達せず、間違った聖書理解のまま死ぬ事となり、天国へ入れるかという事についてと懐疑的にならざる得ないであろう。

しかし、そういう矛盾を包括し、またグノーシス(知識主義)また行いによる誤った信仰という人がいるかも知れないが、現実的にエビオン派、グノーシス、仮言論という異端が多々ある中、我々が考察しなければならないのは、主イエスを、信じる者は救われるという信じるという事についてであろう。

危険なのは、洗礼を受ける事により救いが確立したとすべきであるがクリスチャンでも生涯信仰から離れて他宗教に行く人もいるし、キリスト教から離れる人もいるという事実である。

牧師は、救いという事を安易に捉えないように促す必要もあるだろうし、個々で祈るとしても、客観的になる必要も感じる。

というのも、計画による救いが、祈りから信仰につながる真実の祈りと行動の結果に実現する。

また、肉と御霊の関係などから、信仰生活を始めたばかりの人、また長い人であっても、その人により、信仰の成長に差異があるという事実やヤコブ書にあるように行いのない信仰は、死んだ信仰であると随所に聖書で怠慢に対して警告があるように、信仰により救われたという事については、信じてから学ぶのであり、また信じてからが新たなるスタートである。

日々、1日1日そういう心構えが必要なのだと聖霊様は、聖書で、教えておられると聖書を読み感じますし、経験上、心構えから御言葉が与えられる事が多々あると思います。

また、現代のキリスト教は終末の時代であるのだから、主イエスを畏れる、恐れる人に救いが近いと言うことについて、切実な思いで、必死に、神へ祈る必要があるというのも、終わりの時代程、不法がはびこり、愛が冷え、

ほうぼうで戦争が起こり、人の心も腐敗すると言うことが分かっているからです。

今現在、私達が信仰により生かされているならば義において、愛において妥協がないはずですが、愛国心、政治に無関心なのは、悪魔により教会が攻撃されているからです。

政治と宗教が分離されている。

しかし、政治とは、国を治めるという意味合いがある。

秩序と法を持って国を治める機関が国の頭脳だとしたならば頭脳がやられた国を船と例えるならば、結果は、水没し、国も滅びる。

愛とは、隣人を愛するとは、神とこの生まれた国を愛する事も含まれているのですが、教会は、完全に愛から分離されている。


問題となっている事の一例を上げましたが、信仰のあり方について、自身が神に、問いかける必要性があると感じる、今日この頃です。

まず一人一人が、信仰のあり方を見つめ直すという事が、今回の何が正しく、何が間違いであるかという、正しい聖書理解へと繋がる上で、一番大事な事だと理解する必要がある。

一人の人を神の神殿と見た場合、神殿に汚れがあるならば神の聖霊が悲しみ、心の包皮により、罪が見えなってしまうように、いくら、正しい聖霊様からの聖書理解が与えられたとしても不信仰だったり、ずるく横島なクリスチャンには、正しい聖書理解に到達しないという事から理解する必要がある。

あくまでも信仰の成長により、聖霊様が狭い道、神の道を示唆して本当に救われた人とされるからだ。

だから、準備段階として上述した個々においての信仰の心構えから、話しをしたのは、語られた御言葉も、書かれた御言葉も、啓示された御言葉も生きた神の現存した御言葉であり、聖霊様の働きが不可欠であるからだ。

信仰が成長してない、信仰による行いの欠場や不信仰であるならば、御言葉をいくら読んでも自己の視点で読むので、何の信仰の成長も見られないであろう。

諸君も心の種の話しを聞いているように、御言葉を読むだけで道端に捨て、聞きいても行なわなかったり、真理よりもこの世の煩いや金銭に対してしか、興味を示さない不信仰な人頑な岩地の信仰の人もクリスチャンとして存在するにしても、そのままで聖霊様が完全に働かないという事は明らかな事実として理解なされているだろう。

しかし、内面が整えられ良い地を開拓なされた良きクリスチャンであろうと、そうでなかろうと一つの事実に着目するならば、聖書の正しい理解に対して一歩近づけると私は、思う。

信仰の父アブラハムは、書かれた御言葉に従ったのではなく、啓示された御言葉に従ったのは、明らかである。

後に旧約聖書ができたのだからそう理解できると思う。

では、信仰の父アブラハムが啓示で語られたこと、歴代の預言者がどのようなに認められたのかという事が、旧約聖書が書かれた動機、発端になっているという事が明らかであるならば、御言葉は、始め言葉から生じて、多くの大祭司、預言者、牧師、ラビ等々により審議されて、旧約聖書、新約聖書ができたのであるならば、

私達は、書かれた聖書を信頼するべきであるが、この聖書は、肉と御霊により人は、過ちを犯すので、神が選んだ人が解き明かしをする必要性があると言える。

しかし、牧師や大祭司が、選ばれたからと言って信頼できる聖書の、解き明かしができるかは歴史を見ると悪い牧師、祭司もいると思うし、主イエスが毒麦の、例えでいうよう、教会はその預言する、人牧師、長老にしてもまずふさわしい人かの吟味が行われる必要がある。

難しいのは、正しい判断ができる人が説教しないならば、民は道に迷い真実に到達しないのであるが、その選ばれた人の審議についてである。

私達は大抵のクリスチャンの過ちは、1.説教された御言葉2.書かれた御言葉3.啓示された御言葉において、2だけで物事を判断しようとするが、聖書は、戦うとしても、戦わずに右の頬を出し抵抗しないとしても何パターンの選択ができ、人の思いによりいくらでも自己都合の聖書理解が可能である。

文字は人を殺し、霊は人を生かすという御言葉から見ると不信仰な人は文字で物事を判断するが聖霊により、書かれた御言葉を理解しないならば、聖書は、無意味な書物となりえるという事に私達が気づかないとならない。

盲人は、盲人を導けないのであるから、いくら知識があり、賢い人が上手く聖書の話しをできたとしてもそれが

正しい聖書に書かれた神の真意であるかというならば、違うとしかいいようがない。

だから、正しい聖書理解に必要な事それは、啓示や証を抜きには真実に到達する事は不可能であり、その聖書解釈についての吟味がなされてる必要があるという事である。

だから啓示された御言葉が元になり、それが書かれた御言葉との整合性が合わないならば、また説教に真理において、整合性に合わない人を牧師として認定してはならないし、

語られる御言葉と迎合している人、その牧師の歴史生きざま等々様々な角度から見てその人が主イエスに従う人かという事を加味してから牧師選び、この啓示された御言葉を語る人が解き明かしをする必要がある。

だからといって教会で語られる事は牧師本人の、善悪関係なく、神が信徒の為に語らせる部分があるから、一概に、すべて人の人格の有無だけで、聖書理解の合否を決める訳にはいかないが、書かれた御言葉は、聖霊様の力なしに正しく理解して読むことはできないので、教会の審議と選ばれた預言する啓示される人、牧師か長老かまたは、預言者なのかは、定かではないが奥義の真の理解に啓示が必要であるという事になります。よって3..啓示された御言葉が私達の聖書理解と深く関係しています。