noah777のブログ

ミッションノア

異邦人読んで

異邦人を書いたカミュは、フランス旧植民地アルジェリア生まれで、無名の文学青年であった。
1913年11月7日、アルジェリアのモンドビィ生まれ、父は、北アフリカ産の葡萄酒の輸出業者の社員で、第一次世界大戦で戦死している。
そして、祖母に育てられた。
「私が自由を学んだのは、マルクス主義でなく、貧困から学んだ。」という言葉から、彼が聖書を読んでいたのではないかと思う。


多くの場合貧困は、人々に羨望と不満を植え付ける。
また、信仰と現実の最中信じているが、貧困により肉的な生き方を選択してしまう人が多い中で、カミュ一家は慎み深く控えめで、何も羨んだりしなかったのだと言う。
「私の少年期を、支配していた、美しい太陽は、私からいっさいの怨恨を奪いとった。
私は窮乏生活を、送っていたが、また同時に一種の享楽生活を送っていたのである。
私はそこに、無限の力を感じていた。
この力の障害となるのは、貧困ではなかった。
アフリカでは、海と太陽とは、ただである。
さまたげとなるのは、偏見と愚行とかにあった。」
かれは、裏と表の、序文でそのように語っているという。


サルトルは、カミュの異邦人をテーゼ小説というが、私はテーゼでありながら、テーゼという弁証的な肯定的な思索と、霊の肉欲との葛藤による矛盾のなかの罪という束縛、あるいは、聖書にあるように、真理は人を自由にするという意味で、どうしたならば人は自由となれるかという事を問いている、
それは聖書の御言葉であるという事を登場人物を通して、反面教師として描かれているのだと感じた。
それと言うのも、この作品が貧しさ矛盾という中の人が、何の奴隷となっているのを鋭く描いている。
罪の奴隷となっているのに愛ゆえに縛られる人々が描かれており、最終的には、それこそテーゼと言う形で死からの解放が描かれている。


この物語は、母親の死から始まる。
養老院に行くのが億劫で、母親に会わない主人公ムルソー、そんな最中母親が死ぬ。
母親と仲が良しで最後の友達トマぺレーズは、足を引きずる生活なので、残念ながら葬儀に参加できない。
そんな最中実の息子のムルソーは、葬儀で涙を流さなかった。
また、母親が死んでから、間もないのにもかかわらず、同じ事務所のタイピストのマリイカルドナと不謹慎にも海水浴に行き、関係まで持ってしまう。


人の異常性が、今回引き合いには出されず、主人公であり、死刑囚となるムルソーに焦点が充てられているのだが、いかに人が演繹的に物事を見るし、先入観や偏見で物事を判断でその人の人格を判断するかが、この物語で大きく取り上げられている。


果たしてでは、ムルソーは、悪人であったのか?
それは、noであるとしかいいようないのである。
筆者カミュは、この部分に於いて鋭く描写している。
この事は、教会でもよく起きる事なのであるから、カミュは、中年で亡くなられたが、牧師に向いていたのかも知れないと私は思った。


主・イエスは汝誓ってはならないというその理由は、人が先入観や見た目や世間の常識という時代により変化する事によって善悪関係なく物事を判断しがちだからである。


例えば、貧しい少年が大祭司に対して貧しい人に施さずにいる事は間違ってないでしょうか?
といっても人は、貧しい人の意見よりも普段高尚で隣人を愛し神と人とに真剣に遣えているその大祭司がその時に誤っていた判断をしても少年が避難される傾向がある。
こんな話がある。
牧師が赴任する前に牧師は敢えて自分の身分を明かさず、水ぼらしい恰好で教会に訪れたという結果は周知の通り牧師には愛想が良くても、みずぼらしい人の話しは聞かれないのが現状なのである。
ですから、主・イエスはそれぞれの事実について聖書の事実に基づいてハイは、ハイ、イイエは、イイエといいなさいとおっしゃったのは、人は真理から離れやすい事を聖書で警告しているが、この物語異邦人は、その事実を見事に描いている。


ムルソーは、死刑になる前の弁明でミスを犯す。
母親の葬式で涙を見せなかった事、そのとき母の年齢を聞かれて分からなかった事、葬式の翌日に普通の日のように女と遊んでいたことなどから、ムルソーは冷酷で凶悪な人間で、予め犯罪を計画したというレッテルが貼られた。
言い足すことがないか求められたムルソーは「あらかじめ命を奪おうと意図していたわけではない」と言った。裁判長に動機を問われると、「それは太陽のせいだ」と言った。廷内に笑い声があがった。
弁護側も、ムルソーの日頃の行い(勤勉で人に愛される人間である等)を挙げ、犯行は衝動的なものだったと主張したが、極刑が下された。
ムルソーは被害者であったというのも、レエモンという倉庫係りで実際売春婦の仲介をしていたレエモンが、自分をだましていると思われる情婦に復讐した時その手伝いをムルソーはした。                                      その相手の兄がアラビア人で、レエモンとそれに関与したムルソーに復讐を企て、巻き込まれた結果相手のアラビア人を正当防衛で銃を撃ち殺人を犯してしまったのだから、隣人の為に罪を犯した結果になる。
ところが上述したように、それは太陽のせいだといういかにも自分に関係ないという言い方をしてしまったが故に、極刑となるが、異邦人を読んでいただきたいが、彼は無神論者という形で書かれているが、冷たいようで勇敢で情に熱く素直な人物として描かれている。
最後に彼がしかし祭司とのやりとりの中で神を拒絶してしまった原因は、自己の為に生きるという事が善悪関係なく、罪であり神との断絶であるという事を描いている。                                          


神の国とは神の息子となる事、神の家族となる行為であるが、ムルソーの興味は最後まで自己の幸福であったが、皮肉な事に人の愛や人の肉欲の為に彼は縛られていて、最後の死刑の時に神から許されたであろう静寂を喜びとし、愛とは人を恋しがる要素があるが、孤独の内に死ぬよりも憎しみさえも必要と願ってこの物語は終わっている。           憎しみさえも人恋しさの故に必要であったのである。                                        しかし、この作品をテーゼとしてみるならば、ムルソーが神の国に入るが為に必要な神の道を示唆しているが、作品上ではテーゼとして書かれているのではないかと私は思う。                                    この世騒がしくとも神に於いて祈り静寂の内に歩む。                                        そんな一日であるように祈ります。
主・イエスが十字架に架かられたのは、私たちに救いの道を示すためであり、その本当の予定説により救われた人はその道を歩みその人が罪を犯し時に絶望的であろうとも一つ他の人との違いを見出すと思います。                           それは、その人が神の御言葉に忠実であろうとしている事、神を恐れ畏れ敬うその生き方に不正がないという事です。                                                                      一見表面が正しく見えてもその人が神の掟、御言葉に関して不正があり、それが見えないならば、聞いても聞けなくなり見ても見えない状態にされるでしょう。                                               ですから、純粋な信仰を持つ事が大事であるという事の大切さを異邦人は私たち人類に教えてくれている。                                  もし神の前に不正がないとしたならば、それを極刑にした彼らはあの世の天国へはいれるのか?                                       だから、私は思う。牧師は道を示すもの目覚めている者でなればならない。
聖霊に満たされている人は惑わされない。本質を見抜くから、罪なき人を状況により簡単に左右されず罪に定めないし、だからその一人一人サタンの惑わしを受けている人たちに的確な指導をする事が可能となるのだ。                         しかし、失敗するのが人ですが、ダビデのように道を完全に修正し悔い改め勝利した者でなければならないと感じました。                                                                       主・イエスを信じるならば誰でも救われます。
その事実に変わりはありませんが、それは、神を計画により畏れている人に実現していると私は確信しています。  そういうならば、教会の過ちや牧師の過ちというよりも神側から見た救いという意味での正しい教会、牧師にスポットをあてるならば、私たちはそこに神の御臨在と救いの確信をえる事になり混乱しないですむようになると私は思いました。  
今日一日が主・イエスによりて良い一日であるようにお祈りしています。