noah777のブログ

ミッションノア

ブルンナーの考察から神を考察する。

吉さん


聖書は、ブルンナーの、時代に多くの人、あらゆる人達が持っていたという。

しかし、それを熟読する人は、少数であった。

聖書を読む時、ブランナーは、聖書は、預言者たちの、霊感により書かれた書物であるという。


例えば、聖書の登場、人物でなくとも、1人の偉大な母がいて、それぞれが母を語ると微妙に、ニュアンスが異なるが、聖書もそれと同じであるし、雑音も入るが、それが、父なる神の声を聞く上で、注意が必要という事で、蓄音機の例えで上述した神の御言葉と人という雑音と語っておられるが、ここは、私なりに修正しておきたいと願う。


この主張は、過ちであるが、間違い過ぎるという訳ではないというのも、現代は、カトリック、プロテスタント、あらゆる宗派が存在しているのであるが、一つの御霊、皆様が聖餐式に預かるという事が、聖霊を受けるという事であるのに、分派があることからも明らかである。


この事に、関して鑑みて、ブルンナーの話す事を、勘案すると答えが聖霊により現される。

1.肉と霊は互いに相反し、聖書では、聖霊を悲しませる事もあり得ると記載されている。

2.聖書は、全て神の御言葉であり、これに付け加えたりするならば

黙示録22:18

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。

これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。


このように

あるので蓄音機の例えをし、人の雑音、神の声と判別したブルンナーの考察が100%正しいというわけではないと私は、判断しましたが取り上げたのは、

1.信仰は、成長する。

2.私は、あるクリスチャンと知り合いとなりました。

彼は信仰があるというより教会に慰めを得たくて来てるように思いました。

しかしあるきっかけにより彼は、変わりました。

本人も吐露したが、サンデークリスチャンから計画により、本物と変えられる場合がある。

ジョンウエスレー、ジャンカルバンも後で変えられたと吐露している。

私が言いたいのは、人は、理性とエゴがある存在で、御霊と肉により、聖書を読む中で、御霊により読むには、神に従う人、その比率が、上位の人でないならば、ヒューマニズムや肉的、自我というイバラが邪魔するし、聞き従わない人、キリストを心の中心としない人とは、人の理性や科学、医学などを主体としている人でもあるが、そういう人は、自己の都合で、聖書を読み、行いも、動機も、自己から生まれるので、絶対的御言葉神に対して、反抗的にならざる得ない。

例えば、ブルンナーのいうように、運転する人がいて、神を抜きに生きる人は、ブレーキのない車の如く、自己の情念パトスにより、猪突猛進して、広い門に進み、狭い門、公義の、小道の道ではなく、自己を教えず、神を恐れず、自己の思いに満足する結果、死に対しては、恐怖し、死は始まりではなく、後悔となり、信仰生活も肉的な奴隷となるでしょう。

この事から、人は、牧師兄弟の、助けを必要とする。

何故ならば、肉的な人の聖書理解は、ブルンナーのいうように、雑音や自分の都合の良い聖書理解に陥りがちだからだ。


だから、御言葉を聞いて行うという事の為には、まず、教会へ行き、牧師に従い、兄弟に仕え、奉仕する、この無償奉仕が、自我滅却へとつながり、聖書を読めて、王様となって、過信している人の心を神に向かわせる結果となる。


何より霊が諸教会で告げる事が肝要であると私は、思います。

理性や現代倫理ではなく、神からの啓示と神の御言葉を頼りとする人は、幸いです。

心貧しい人は、真理を探求し、肥えた羊は、真理をないがしろにしますが、神を本物に信じる人は、正しい牧師に従い、真理はその人を自由にしていきます。

信じる人は、救われたのです。

聖書の学び