聖書をどう読むのかという事について
主イエスの御言葉に、何故あなた方は自分自身で何が正しいのか判断しないのかとある。
神に祈り、それが正しいかをすぐ調べる事はとても大切なことなのだ。
ベレアのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
と書いてあるように、
調べる事は、例えば車の点検でハンドルが、ないと方向が定まらないのと同じく、聖書を読む時に、私達は
神の道への方向について神に示唆して頂く必要があると思う。
ヘシオドス
最上なのは、自
ら全てを悟る人、また、よき言葉に従う人は、立派なもの。
だが、自から、悟らず、他に聞くも心にとどめないのは、せんなき輩。
私達は聞き方について深い洞察と鋭い観察力が必要である。
ヘシオドスが最後せんなき輩と書いてあるのは
上述した事をしない人は、どうしようもない者たちと言っているのである。
ところで聖書で言うならば、ヘシオドスの言う言葉はこう修正して言うと聖書と合致するだろう。
行いのない信仰は死んだ物であり、門を叩く者は神と食事をし、御言葉を頂く事ができるので、本来の自己に到達する。
また、本質、真理により、迷いから解放され、主イエスを信じる人は、救われたという真の理解に到達する。
しかし、御言葉を道端に捨てるような人は、サタンが、御言葉を持って行くので、聞いても見ても悟らず、せんなき輩となるのである。
そういう人の主イエスを信じる者は、救われた。
という言葉は、信じるという点に於いて不完璧であると言える。
主イエスのガルバリへの道は、十字架による人類救済を意味するのであるから、私達は、
その主イエスが示した神の道、道であり、真理であり、命である。
この神の道を知り、行う時にキリストを伝える時に聖霊に満たされて救いを実感するのである。
私達は神の道に歩むという事が端初であろうと端初から向かうという事により救われたのではなく、端初である主イエスの十字架の愛それが真実と知り得た事それを受け入れたことにより信仰義認されて救われたのである。
大切なことは、端初であり始まりであり終わりである。
この奥義、主イエスを信じる者は、誰でも救われるという事を知ることが聖書を読む一番の理由であるという事である。
ですから、向かう事により救われたのでもなく、それにたち戻る事により救われたのではなく全ては、信仰により義とされて救われたのである。
一切合切の恩寵により救われたのである。
しかし、注意が必要なのは、招かれる人は、多いが選ばれる人は、少なく、門は、狭いという事を忘れてはならないし、律法学者より優れた者とならないと天国へ、入れないという主イエスの厳しい御言葉に対して真摯に受け止め常に謙遜である必要がある。
私が悟った事は、信じるとは、神を恐れるという事と等しいという事だ。
今日はどのように聖書を、読む必要があるかという事について書きました。
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