noah777のブログ

ミッションノア

人生論トルストイからの考察

私達人は母親から生まれて来る。
生まれてから何年かして言葉を話すが、人が理性を持ち自分という存在や他人という存在
善悪等々の感情を持つようになるのは、人によって違うと思うが、5歳位には、好き、嫌いとう感情や寿命があり、生まれて死ぬ存在であるという事を認識し始める。
動物と人間の違いそれは、人は善や悪を知り
時間と空間を認識し神から受けた愛という目には見えない感情を持ち合わせているという所で人間と動物を区別する事ができる。
動物にも感情があるし、愛欲的というか愛情愛着を持つし、時に本能で憐みを示す事もあるが、動物の思考するそれらの観念は、人と違い
その時その時の本能による行動で人のように、後で考えてこれは良い事悪い事という思いはない。
動物は、腹がすくと食べ、雄と雌が交尾をし、善悪という思いはないが、自己の体の痛み、また快楽により、どう行動するかを決めて行く。
例えば人に迷惑かけると人が叱る。相手が攻撃してくると言った自己の生命の危険や心の不愉快な思いを経験すると本能的にそれらをしなくなったり、例えば熊がおびえた人を襲わないと言った行動を動物的な本能で成している。
しかし人間は、パスカルが人は考える葦であると言うように、人は自我をもっており、善悪によって物事を決める。
例えば、政治活動により、国から迫害されても宗教弾圧があろうとも、人は神から与えられた良心という物があるので、動物のように嫌な目に合うと分かっていても、正しい理念を捨てようとはしない。
今回主・イエスの導きがありトルストイの人生論を紹介するにあたって私達がまず考えるべき事それは、人間は快楽や欲望のままにいきるサルのような生き方をしてはならないと言う事から話しをしたいと私は思い上述した事を書き語りました。
次に私が説明する事それは、人間の生命についてです。
物理的に言うならば、人の肉体は生まれてから死ぬまで細胞分裂していく。
10代の自分も30代の自分も高齢になった自分も同じ私であるが、10代の自分と高齢になった自分は全く違う存在であり、同じ自分である。
それは生命活動としている一つの生命体であるが、肉体的な生命には限りがあり、人の体は機械と同じように劣化しついには、死をむかえる。
知識人には2通りの考えをする人がいる。
1つは、自己の生命は肉体の活動だけが人の生命である。
2つ目は、人により認識された父、母家族、
この世に存在するあらゆる物質が事実と認識するこの古来から言われる魂という精神体は滅びない。
形を変えて死後も生き存在するという観念である。
人は寝ている時は何処に行っているのかわからないしたまに夢を見る程度で自我は完全に消滅した状況である。
理性的な人間でない原住民や昔のインディアンのように生きて死ぬという人もいるが理性的な教養ある人達は、何が正しくて何が悪い
という事を歴史を通しまた家庭の中で善悪を学びそして人がどう生きるべきなのかという事を絶えず自己啓発して生きている
このように考察する事が本当の健全な精神活動ともいえる。
だから人は愛国心を持ち政治に関心を持ちまたこの世を良くする事を絶えず祈り希求して
生きている。
聖書で主・イエスは平和を造るものは幸いである。その人達は神の子と呼ばれるとあるように人はただ食べて寝る存在ではなく理性的な生き物でもあるのである。
では人はどのように思考し生きるように神によって創造されたのかについて考えて行こう。
聖書では、私達には2通りの生き方があると言う。
1.律法を破り、罪を犯し悪を犯す生き方。
2.神の律法掟を守り、罪を犯さず善行して生きる生き方。
しかしこれらの事を人は子供の頃から何となく教わっているし、悪い事をすれば社会もその周りの人達もその人と関係を持たなくなるので多少倫理的な事について人が成人する頃には社会的な規範を大なり小なり身に着ける
しかし、人は生命の事に関していうならば、科学や物理学でまだ研究がなされていない未知なる物があるがゆえに、未熟な理解しかしていない人がほとんどである。
キリスト教では、私達人が創造主である主・イエスにより創造された事、人には罪がある事
その罪の贖いの為主・イエスの救い十字架が必要であり、罪赦された結果死後天国という新天地にはいる事できると認識している。
つまり生命は肉体の滅びに関係なく魂という精神体は、滅びないのだという事を知っている。
もし、人間の魂聖書では霊というが神が霊であるのに、人の魂が滅ぶ存在であるとしたならば、人には絶望以外残されていない事となる。
古来から知識人達や富豪たちは自我を肥え太らせ、自己の幸せの為に人を利用し奴隷を扱い自己の不幸となる物事を解消していた。
マズローが言うには人には5段階の欲求なるものがある。
1.第1段階:生理的欲求
食欲、排せつ欲、睡眠欲
第2段階:安全欲求
第3段階:社会的欲求
第4段階:承認欲求(尊重欲求)
第5段階:自己実現欲求


あるがままの心で生きたい、自己の思いを叶える為に生きる人はエゴ自我という事の欲求を持っており、これらの動物的な個我を満たす為に生きている。
ガラテア5:19肉による生き方
姦淫、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、いかり、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴
これらを肉の行い聖書で神が言う悪い行為とされています。
人が社会的な欲求を満たす事自己実現する事も悪い事でありません。
よく貪欲さが必要な時もあるといいますが、
その貪欲さを持つお互い人間の争いのけっかとならないように理性により動物的個我を制御し自我を理性により制御できれば、良いのですが貪欲、欲望が行き過ぎると例えば料理で使う火は便利なもので私達の生活に役立つものですが、火も強くなりすぎれば、家を燃し人に害を与えるように人の欲求もそれ自体正しい物の見方により、人に迷惑をかけない
状態を維持できれば、罪となりえませんし、
動物的な個我は有益な物となりえます。
しかし理性はまずこの本能で人が生きるサルのような理性的でない生き方を阻止しようとします。
なぜならば人間は神の似姿に造られているだけでなく神と同じ思考倫理観を持っているからです。
人間は善と悪天使と悪魔との中間の存在です。
人類最初の自我を与えられたアダムとエバは罪犯して楽園から追放されました。
人には罪があるので悪い事が出来ます。
罪がなければ人は自我を知り、事善と悪を知る事はなかったでしょう。
自分という存在を知る神と同等の知識英知が欲しいと願う事により罪がはじまったのです。
罪とは神を否定する事です。

また善悪関係なく、神を無視した観念に固執することも含まれます。
神の喜ぶ行為それが律法であるとするならば、欲望欲求がそれに相反するのでそれが善に見えても悪に見えても過ちであるという事を知る事が出来ます。
ですから人は、理性による動物的欲求を制御する必要があります。
何故肉的動物的個我を制御し時に理性により
消滅させる必要があるのかというならば、
動物的個我から来る罪欲望がある状態だと
新の知的活動であり生命の道である愛が人の精神に宿らないからです。
戦争があり争いの原因は動物的欲求低俗な思念がお互いにあり、その思いがぶつかり合うから生じます。
人は誰でも王になったり、高い車、家などを手にいれたがります。
また社会では優秀な成績を収め人が認められたがり、絶えず欲によって生きているのが現代人です。
しかしそういう生き方は一つの事を見落としています。
動物的な行為欲求で手にいれた地位や名誉お金など肉的な物事を満足させても人はまたもっと大きな欲望を満たそうとして常に終わりがないし人は死んだ時それらをもっていく事も出来ないだけでなく社会的な欲求も物欲も
恒久的な心の幸せでないという事です。
全ての肉欲的な物事には終わりがあるのに対してお互いが助け合い、与えあう愛には終わりがありません。
それは質量を越えた精神至福をはらんだ善による精神活動でありますが、至福をはらんだ善の精神活動他人の為に奉仕したり生きる生き方が理性が欲求する本来的な自己でなければならない。
しかしこれらの善業をしたとしても肉欲動物的個我を制御せずにした善業によっては真実の愛を手にする事は出来ません。
欲により愛の芽がふさがれたりまた自我が愛の行為を否定してその自己犠牲の愛を継続
できないからです。
愛という芽が芽生え育つのには時間と互いに与えあう精神的活動が必要である
し、それらの活動の結果神が人に愛の感動を与えて下さらなければ、それらは成長しないからです。
2つの芽があったとします。
1つは悪業と言う罪の芽
1つは、善業から来る愛という芽
人が勘違いするのは愛欲愛憎と真の愛との違いに関して間違った考えをもっています。
恋愛で人を好きになるという偏った偏愛は真の愛とは違います。
自我を満たす愛母親の息子に対する愛は本物ですが、それと同時に肉的な思い動物的個我に対して注目すると
例えば愛する人を他の相手にとられる。
息子は愛せても他の子は愛せないこのような
愛は偏愛でありますからまず家族とか結婚相手という垣根を動物的個我を制御し時に消滅させていく必要があります。
神を愛し隣人を愛するとは主・イエスが言うようにその困っている人を助けたり与える事により愛をしる事が出来ます。
しかし愛を知るにはマズローの法則にあるように互いの欲求が互いにぶつかり合う時戦争、争いがおこるので執着、こだわりといった動物的個我から来る悪を理性の法則、神の掟により制御して時に自己犠牲の愛により、お互いがその欲求を抑えるひつようがあります。
例えば一人の女性を2人の人が好きになったとします。
すると争いが生じる。
また食べ物がなくパンが1つしかない。
3人が死ぬほど腹を空かせている。
どうするのかというならば、究極的な愛は主・イエスが私達の罪の為に十字架に架かられ私の罪の贖いをしてくださったと同じく
自己を完全に捨て、神と人の為に生きれるようになる。
これが私達が目指す神から与えられた究極的な神の道、人が目指す最終的な道の到達点という事が出来ます。
世界の平和の実現の為には動物的個我を理性的な霊による聖書でいう聖霊様により制御して頂かないなりません。
人は新人類、神の人へと進化する生き物なのです。
人は神の人ゴッド・メッシュを古来から天使アンゲロスといいます。
また、人は行いにより進化によって救われるのではなく、その生き方を計画的に選んだ事により計画によって救われているのです。
エゼキエルの書にあるように人はすく゛悪い事も良い事も出来ます。
しかしどのような時にも神を愛し人をあいするようになるには、神の試練が必要にもなるし、色んな善悪の経験を通して人は悪より善を取り救われて行きます。
ですから主・イエスが言う古い皮袋が仏教でいう修養、精進忍耐であり、これらを行い
ブドウの木である主・イエスにとどまるならば、時間がかかりますが愛が芽生えます。
しかしそれを邪魔するのがお金に対する執着、自我を満たす自己の都合の偏愛や罪です。
これらの罪からくる弊害を理解しそれらを制御し真の愛、生命に至る事が人生論でトルストイがして言う人の生き方です。
人は愚かなので自己のヒューマニズムによりこの今の価値観だけで物事を判断し、その時の結果、例えば受験で良い成績を残し大企業に入れさえすればそれが正しいとしてしまう生き物ですが、そのような誤った今だけ金だけ自分だけという生き方は怒り憎しみ争いを激化させ常に心は不安に駆られます。
動物的個我を制御するとは神を畏れそこに神の為世のため人の為にいきる生き方を制御したうえに倫理という思考によって用いるという事です。
例えば弁護士になるといっても肉的な思いでは、認められたい、自慢したいですが、
世の中の悪や不正に対して救いの手を差し伸べたい。
正しく裁き世の為人の為社会に貢献する生き方を動機として動物的人の欲求を用いそれが争いや神や人に迷惑をかけないように制御する。
そういう生き方をする事が必要ですが、その為にはお金の為自己の思いを完全にまず捨てて神に祈り真理を洞察して倫理観を高める必要がありますが、誰でも精神的指導者になれるのではないのは上述した動物的個我によりその高みにいたらないと神の英知聖霊の愛が完全にその人に宿らないからです。
教会キリスト教会はここを間違うのであり、
本当の救いはやはり自己が神に求めそして心を清くして本質を見極めるようになる必要があります。
すると神は正しい方ですから良き指導する人と出会わせ良き友良き信徒と出会い救われていきます。
行いが悪い人と神は仲良くしませんので、トルストイがこの仏教でいう悟りの境地を教えられたのもトルストイが正しい義人であったからであると思います。
それにふさわしい人に囲まれて愛されて死んでいったのでしょう。
彼の魂心は光輝いていたのだと思います。
愛によってそういう事を求めなくなっているとしたならば、それこそ精神的な病であると
言えますし、哀れな人生ともいえます。

愛は全てに平等に与えそこに利害損得はありません。

愛は忍耐強く真の愛は、分母分子で言うと先天的な分子の愛でなく、全ての物を慈しみ、憐れむ大慈悲であり、全ての人を救い得る愛です。
ところで、死は生命が変化するだけで、変わらず存在しているとトルストイは言います。


さなぎから蝶に変わっても実体の霊は死後の世界で存在しているのです。
人の本来の目的それは、神と共に住まう新天地に至る為に善を取り罪を制御して生きるその付帯要素になるのが仕事であったり夢であったりしています。
私達の人生は影にすぎません。
イドラやイデア論にあるように人の実態は善と悪による精神体なのです。
仕事や日々の生活はこの精神体である魂の完成の為にあるのだという事を知ってほしいが為に私は人生論について主・イエスにあって説明させていただきました。
そういう生き方をする人にとって夕焼けの太陽、波の音、大自然は神の愛により創造されたと心に感動し涙するようになり神を一層求めて行くようになります。
年を取るほど感動がなくなるのは動物的個我は愛を阻害し、肉欲と言う心の油により純粋な精神が鈍って理屈によって心が狭くなるからです。
常に祈り、聞き、行う人は死ぬという苦しみから解放されます。
なぜならば罪を覆うのは愛であり愛に全くの恐れはないからです。
私達の魂は死ぬ事はないからです。