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ミッションノア

正しい聖書朗読に必要な事

吉さん

正しい聖書朗読に必要な事

神に認定された証言者が、語る証言と教育を加味した説教について


アダムとエバが悪魔の誘惑により、善悪の知識の木の実を食べた事から人は個であるエゴーであると認識され神との断絶、罪が始まった。

全人類に罪が入り、死が入ったように、私達は、原罪があるので死ぬのですが主イエスを信じる信仰により義とされて、恵みにより救われています。

ところで、教会も腐敗や教えの違いから分裂が生じているというのも信仰は成長する物であると言う事とすでに救われていると言う事の違いに対して牧師も信徒もあいまいとなっているからである。

人類は、行いや行為により救われるわけではないが、行いに達しているかの吟味も必要である。

というのも、1.神への祈り、

2.神の応答または、直感的な神の導き

3.信仰による行いによる信仰義認

1、2、3、という過程の中において、私達が主イエスに命じられたこと、また祈りだけを求められた事の違いをクリスチャンは、把握していき、啓示や聖書を頼りに悪魔からか?神の導きかをよく吟味していく必要がある。


今まで語られた事が教育または、教えを加味された説教とも言える。


さて諸君は、祈り、行動、そしてその後の吟味をしているであろうか?

祈りにも自己への祈りと神の国と神の義を求めた上での祈り、例えば、戦争がなくなるよう、飢えたひとがなくなるようようにという事も祈りならば、祈りが、

神との対話でもあり、祈りが説教となりうる祈りもあると思うが、祈りと説教という分類で祈りが分けられると考えるのは危険だし、説教で賛美や祈りが加味されていないと分類してしまう事も危険といえるのは、ダビデの詩編は、説教でもあり、賛美でもあり、時として祈りが加味されているからだ。

しかし役割が違うという事は理解する必要はあるが分離する事が必ずしも正しいとは言えないと私は思う。

だから、人の常識という事ではなく信仰により物事を判断する必要がある。

歌が学びともなりうる?

しかし聖霊により私達が物事を判断しなければ真実に到達しない。

それは主イエスを信じた状態を維持する事を指し示す。


話しはそれましたが、1.2.3.において

行動に全く反映されない祈りだけで終わるという祈りには過ちがあると言わざる得ない。

何故ならばタラントは、信仰による行いの結果に与えられた物である事は明らかであるし、行いのない信仰は死んだ信仰であり、無意味であるからだ。

無意味であるという事を知れるのも恵みであるとも言えるのである。

聖書を個人で読むにしても、やはり教会での祈り会、聖書勉強、牧師の、説教が不可欠であり、神は2~3人このところにいるというし、真理は普遍であるならば一致する共通点が見えて来るはずである。

なので、独断で聖書を読み判断するのは過ちに陥る。

また、教会が牧師を育て、また教えられているか?きちんと教えについて聖書を、読み吟味して聖書通りに神に従っているか?が重要であり、教会での預言は賜物をおろそかにしてない教会の教えが重要でもある。


例えば、ルターが1517年に宗教改革した理由は、免罪符やら、教会が聖書の御言葉から離れた腐敗が原因であったのであるが、盲人が盲人を導けないのであるが、教会盲人となりうるのであることに注意が必要である。

聞いても見ても御言葉を、拒否するならばイザヤ書にあるように見ても聞いても理解されない者となり得るであろう。

だから、教育や、説教証言者は、良い教会から排出されるとは言えないが少なくとも教会は人を教え、育てなければならない。

そういう意味合いで教師はキリストお一人であり、この原則から外れ牧師が神格化したり、異端に走る教会は的が外れてしまう。

要するに神を畏れ、恐れて、罪を、おかさず、神に忠実な人達の集まりが教会でなければならないし、そうでなく成長しない教会は、教会ではなくなってしまう。

信じた私達が救われたのは、計画による救いにより救われたが、人は、過ちを犯すし、自己の考えを正しいとするので証言者、説教を加味した説教が、必要なのだ。

独断で聖書を理解しないようにお互いに気をつけていく必要がある。

今日も1日良い日であるように祈ります。

聖書の学び