4つの行為について
マックスウェーバーは、目的合理性、価値合理性、感情的行為、伝統行為、
1.目的に対して適合的手段
2.特定の価値観に沿った行為
3.感情的
4.伝統的、日常習慣化した行為
の事を語っている。
カールバルトやディーリットリッチュル達は、これら事を加味しつつ、教会の問題について考察なされている。
聖書と合致しない、人間のロマン主義、イデオロギー社会通念や典礼伝統が、時として価値合理的、または、感情的、伝統的、機械的な礼拝となりうるという。
しかしジャンカルバンが言うように組織とは、教会にとって血液の要素を無し得るし、別の言い方をするならば、組織秩序から生じる伝統は、マネジメントともとれる場合もあるし、大きな組織には、秩序だてられた習慣が必要とも言えるか、それが目的合理性本質からかけはなれてはならないし、時代や時により、常に聖書中心でなければ、それが
信仰から離れた結果ともなりうるのである。
例えば野球でいるならば、阪神ファンは、感情的な部分で行動しそして伝統的習慣的になっていくのだが、上述した観念が何か真理的な物事を基軸としておらず、これらの事は、演繹的にまたは、肉的な功績やカリスマ性娯楽快楽と言ったいきすぎた観念から生じる場合もあるが、人が一致して共有して物事に取り組むという事は、行き過ぎなければ喜びであり、悪い事ではないが、それが神よりも大切なこととなりうるならば偶像崇拝となりうる。
1つの一例を分かりやすく話したが、カールバルトの、時代にもイデオロギー絶対化に対して神のマイナスの必要を提唱しているというのも、人は、日本の原発再稼働などを見ても分かるように、律法倫理観が不可欠であり、
道であり、真理であり、命であられる全世界の神主イエスキリストに従わなければならない。
土台となる事が政治において、社会通念においてもキリストでなけれなればならない。
よく教会で伝統、典礼儀式が聖書教育よりも、強調されてしまう場合があるが、サクラメント秘蹟である聖餐式にしても典礼にしても、
神に聞き従い、信仰により、行動をした時に神の道がその人に現れ、それがそのまま、計画による救いである。
悪魔の罠にはまる人達は、小さな娘を見て、その子が何もしなくて亡くなっても、救われると言う事により、恵みとは、何もしなくてもしても関係ないと理解するが、そのような自己の行いの結果でないと考えるが、これは大きな過ちであり、信仰によって導かれた事ではない。
彼らが見落としているのは、ローマ3:7であろう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
神は、こざかしくずる賢い人達の神ではなく、自分の罪深さを知り、真実に悔い改めた敬虔で信仰熱心な人達の神である。
ご自身が罪赦された罪人であり、このような私でさえ救ってくださった神を誉め称え、福音を伝える人が救われた人なのである。
私達が主人ではなく、キリストがまず私達に仕えられた事、罪を赦された事から教会の奉仕活動がなされるならば、伝統や感情に流される事はなく、信仰により、聖霊により、私達は、主イエスの御心を為し、天国へと入った物とされているである、
信じるとは、恩寵であり、今語った事が聖書に書かれた神の御言葉であると言う事を受け入れる人は幸いであり、真実に救われた人であると私は信じて疑わない。
今日も1日平安があるように祈ります。
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