説教、賛美、祈り、典礼的なサクラメント、牧師、万人祭司の区分けについて
教会は、聖書中心でなければならない。
厳密に言うなれば、主イエスの御言葉通りに、礼拝やその他の活動を成す場所であり、教えを学ぶ場所である。
ところで、組織的な活動を為す場合、どうしても、秩序が必要であり、ある程度のルールや区分けが必要とされなければならないが、
聖霊様により、教会秩序が成り立つとしても、クリスチャンは、区分けについてきちんと理解が必要となる。
どうして、それが必要なのかと言う一例を上げるとするならば、祈祷会をするとしよう、
例えば、祈祷会で何をするのか?
1.聖書の箇所選定
2.祈り
3.証
としたとして、聖書箇所を決めてヨハネの福音書物3の所を読み、主イエスの御心を求めるとしたとして実際にある話だが、その箇所以外の話しを認めない牧師もいる。
これは危険な行為であると私は思う。
確かにヨハネの福音書3章を学ぶ事は良いとしても、そこから飛躍して主イエスの聖霊の働きにより、証してはならないとして良いかは、人にはわからない事だし、順番で言うならば、証は後でとなるが、例えば、そのクリスチャンがそこで帰る場合があり、その方がモーセのような人物である場合もあるかもしれないし、ヨハネの福音書から証がなされる結果となるにしても、順番が3番目が、証だからと言い、その話しを止めてはならない。
また賛美にしても、祈りにしても、すべてキリストが包含されて土台となるが、祈りに説教があっても良いし、祈りは、神へと向かうものだが、貧しい人のために祈り励ます祈りが否定されてはならない。
また、賛美を抜粋して説教する牧師がいるように、また、ダビデの詩編でも分かるように、祈りは訓戒ともなり得るし、賛美ともなり得る要素があるので、区分けが必要であるが、私達はそれを人の制度ルールで縛る形となってはならない。
この事は昔の教会でも議論なっていたようだが答えとしては、あいまいという事が正解である。
何故ならば、上述したように、色んな視点で考察した結果、どの視点から捉える方法も正しく、間違いでないと言う結論が出ているからだ。
また一方で、カテゴリーや区分けを正しいというする事も正解であると私は思う。
では、私達クリスチャンはどのように判断理解するべきなのか?
それは、祈祷会を一例にとるならば、制度があるが、祈祷会とは、キリストが私達に望む事をキリストが共におられ、語られる場所であると言う事である。
その語られた事が、義と平和と愛にあふれ、自己の驕りや肉的要素がなく、聖霊によりなされている場合には、それは、すべて正しい事であるという事である。
ヨハネの福音の箇所を語るとしても昔の自慢話などばかりする人は、司会進行的には、常識的であっても、信仰者としては、
誤っている場合もあるし、誇るならば、主イエスにあるべきであり、誰も誇る事がないように心がける必要がある。
確かに、ヨハネの福音書の箇所について、学ぶ必要があるが、順番を定めたとしても、主イエスが、今語りたもう語りが優先でなければ本末転倒である。
しかし、牧師はヨハネの福音書の箇所についてを主体としつつ、上述した祈祷会、また、礼拝を目指すべきである。
さて、牧師は神が役職として任命した。
しかし信徒は、万人祭司とも言われている。
見落としてはならないのは、信仰は成長すると言う事である。
牧師も過ちを犯すし、信徒が神により万人祭司と呼ばれる時があり、その時、関係なく牧師を選んだのは、神であり、エバが先にサタンに騙されたようにアダムがエバより精神的に強いように、祭司的として、牧師として選んだ選びがあり、牧師が語るという事に注目しなければならない。
かといって、過ちを犯さない牧師はいない。
問題はその牧師が謙遜に過ちを改め、神に選ばれているかという事は、その牧師が教会の牧師としての道を歩んだ時に教会がその人が不適格ならば判断すべきであるし、神の選びに間違いはないとしても、教会は過ちをおかした続ける牧師を主イエスにあってどうするか、判断する必要もあるという事である。
ソロモンのように間違いを犯さないとも限らない。
教会がいかなる不義をも容認してはならない理由は、キリストが教会の土台であるべきだからである。
万人祭司とは、聖書の理解から外れた人を万人祭司と言わない。
牧師にしてもしかりである。
もしそうでなく、悔い改めない教会は、いづれ、教会ではなくなり、異端となるであろう。
しかし、真実に主イエスを信じるならば、計画により、私達は救われた者とされています。
大切なのは、主イエスに聞き従い、神を畏れ敬い、御言葉に忠実であるという事である。
今日1日神の祝福と恵みがあるように祈ります。
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