行いか?信仰か?
私達は、行いにより救われるのではなく、信仰義認されて救われる。
信じて聖書を読み、思惟して、知的直感が与えられる。例えば、エジソンも1%のひらめきと言うが、神からの聖霊による導き知的直感がなければ聖書の深い理解を得るのは無理なのである。
聖書で言うならば、夢や啓示などであるが、その後に泉を見るだけで眺めているだけの人は、真理、知識的真実に到達しないし、神とのインマヌエル、和合一致もない。
泉の水を飲み、純粋に主イエスに従うと決意して行った時に、御言葉が自分と共にあり救われた者とされていくのである。
1.祈り、2.知的直感が聖霊により与えられ3.純粋にその通りに行う。信仰の父アブラハムは、行いにより義とされたのではなく、
信じてカナンの地へと旅立つ決意した事により、信仰義認されたのであるのだから、
祈りだけで終わり、神からの任務がない人の信仰生活には誤りがあると言わざる得ない。
行いのない信仰は死んだ信仰であるが、
だからこそ、教会での説教や学び会の中で証される、証や啓示、また霊が諸教会で告げた事に聞き従い、神を畏れ敬い、恐れる必要がある。
上述した事が信仰生活でありますが、もし人の肉的思いで聖書を読み行うとしたならば、信仰による事ではないので、私が言う純粋経験と言う事とは違います。
あくまでも神からの示唆が明らかになってから与えられる純粋経験により、啓示が与えられて、その啓示された御言葉が、明らかにされていくのである。
知識は人を高ぶらせるとは、背景に肉的な思いが反映されている。
知識や教養は、高貴な人にこそふさわしいが低能な人が用いるならば、差別、貧しい人への、侮辱、卑下が生まれて、自己称賛へと繋がるが、高尚な人、聖霊に満たされていて、高貴で敬虔なクリスチャンは、知識により高ぶるのではなく、真理を守って、神を敬っているので、いつも謙遜で、愛があり、知識的真実、真理が聖霊により与えられて、迷い子たちを深い慈悲と仁徳により巧みに導き、どのような知識によっても、決して自己を誇る事をしません。
誇るならば、主イエスの十字架の愛を誇るのです。
今回このように書くのは、神からの啓示があったからです。
私が書いた純粋経験という事により、サタンの攻撃があり、行いによる事が信仰と勘違いする人たちがいると思うからです。
緑の蛇、小さな毛虫の夢がありました。
キリスト教では、純粋経験、行いという事を重視したような書き方をしないし、もし行いにより、人類が聖書の御言葉を正しく理解できるかと言うならば、御霊と肉的という意味合いで言うと、未熟なクリスチャンは、肉的でいつも自己中心的な思いで聖書を読むので、そういう不遜で不純物がある経験では、正しい啓示を受けることはできないのは、当然でしょう。
ただ、神を恐れて罪を犯さないようにし、純粋な心で経験した事により信仰
義認されるのだと言う事を伝えさせて頂きます。
罪と戦い、罪を認めて、悔い改めて
自我に対して一度死ななければならない。
律法により私達は死にましたが、幸いな事に神の救いと恵みにより生かされています。
罪とは、律法により明らかになり、私達は死にましたが、信仰の原理により、恵みにより救われたのです。
人類の復活は、主イエスの十字架によりもたらされます。
キリストが復活しなければ私達の信仰はむなしいが、キリストは復活したのです。
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