神は悪魔を放任しているのか?神は、不全能なのか?
この問題に関してネットや動画で誤って投稿されていると私は思うが、この問題は、神を信じてない人の関心事であるので、主イエスに祈り上述した問題について、聖書でどう書いてあるかの考察をしていきます。
創世記に神と人類最初の、祖先アダムとエバが神が食べてはならないとしていた善悪の知識の木の実をサタンによりそそのかされて食べた事により、楽園から追放されました。
アーダーマーとは、ヘブル語で赤い土とよみますが、人は、働いて土に帰る事となったと書いてあります。
つまり人類が、罪を犯した結果、神により人は、断絶されてから、人類に罪が入り、その罪は全世界に広がり、人は死ぬ事となったと聖書に書いてあります。
蛇に関して神は、敵意を抱きます。
上述した事をした事に関して蛇と女を罰しています。
ここで言う女とは、エバですが、女の子孫とは、人間、神の子孫、または、主イエス様とサタンの関係を示唆した物事として教える場合もありますが、
神とサタンは、お互い相反し、敵対する存在として書かれています。
つまり、神は、悪魔を放置しているのではなく、常に神、天使、堕天使、悪魔との抗争が今日まであると言う事をさしています。
また、ダニエル10章を見ると悪いペルシャの天使長、及びギリシャの天使長と神と天使長ミカエルたちの戦いがありますから、サタンだけではなく、天使から堕落した天使たちの存在があり、その間での戦いがあると書いてあります。
では、整理すると神は、悪魔を用いて悪を必要悪として罰したりするのか?という事に関して聖書には、そのように書いてありませんが、ヨブ記には、サタンの欲求に関して神がその欲求通りにしてみよ!私は、ヨブを信じているのだというニュアンスで書かれています。
しかし上記から鑑みるするならば、神が悪魔を使っているのではなく、悪魔がヨブに対して悪い企てをしたのが分かります。
よって神が悪を用いるのではありません。
イザヤ45:7
光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。
ではなぜ主は、災いを与えたのですか?
バビロン捕囚にしてもアッシリア捕囚にしてもイスラエル、ユダの王国の背きのために、災いを創造したという事でありますが、ではなんのためですか?
イザヤ48:9~
わたしは、わたしの名のために怒りを抑え/わたしの栄誉のために耐えて/お前を滅ぼさないようにした。
見よ、わたしは火をもってお前を練るが/銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。
わたし自身のために、わたし自身のために/わたしは事を起こす。わたしの栄光が汚されてよいであろうか。わたしはそれをほかの者には与えない。
自分の子供に愛するといい悪を放任し、むち打たない親は、いないという事であり、悪魔を、用いて上述した事をなすならば、神の民は、全滅して今現在正しい人は、いなくなっていたかもしれません。
今までの話しにより神は、悪魔の業を憎んでおり、悪を罰する為に、悪魔を用いる事をせず神が時に戦い時に神罰をお与えになっている事それは、雌鳥が雛を集める如く預言者を遣わしたのだが神の民が預言者を辱しめ、神に背いたからだと言う事が分かりました。
では、ここから本題ですが、神は、悪から守ってくれないのか?というならば答えは、主の祈りにあるように、我らに罪を犯す者を我らが許すように、我らの罪をもお許しください。我らを試みにあわせず悪よりお救いくださいとあるように、平和の神は、神に従うクリスチャンに対して悪よりお救いくださる事が神の御心であります。
しかし、今までのことを勘案するとこのような仕組みを見いだす事ができます。
1.この世はサタンの王座であるから、戦いがあり、完全には守ってもらえない場合がある。
2.理不尽な死が唐突に善悪問わず起こる場合があるがこれは人の罪の為である。
しかし主イエスにしてもパウロにしても主の栄光のために役割があり、また私達は、人間主体で物事を執着しているから分からないが天にエノクがあげられたように、人の信仰の完成、救いの成就という事と理不尽な死があると言う事に目を向けないと神の全能は見えてこない。
天界、地上との関係から、人がこの世を去る時期が定められている。
神側から言うならば、ラシュウブ、帰れと言う事も含まれていて、唐突な死がある場合があるし、また、神に悔い改めの機会が与えられていても、完全に背いて永遠に変わらないがゆえの理不尽な死がある。
また神が全能であると言う事に捕らわれていると聖書の正しい理解に至らない場合がある。
この世とあの世との関係と全能の神についての考察が必要であります。
何故ならば、全能の神にとって、人の子にとって、この世がヨナを飲み込んだ魚の、腹の中のような、暗黒の世界であると言う視点で言うと、神はこの世から人々を天へ早く引き上げたいのだと言う意味合いに於いての全能の神であり、そう解釈するならばなるほど、計画により救われた人にとって、この世ではなく、あの世が本来その人の住む場所であるから、理不尽に思える死は神側から言うならばもうこの世にいなくて良いあの世に来なさいと言う意味合いともとれます。
では、生きている人たちにも全能の神の配慮があります。主イエスのための役割やまだ計画による救いが成就してないの人達に対して憐れみ深い神はその命を守っておられると書いてあります。
聖書では、神がお許しにならないのならば、雀一羽が地に落ちる事はないとあります。
よって天界、この地上との関係を考察していくならば、神は全能であると言えるが人間中心の世界と生と死と言う事で物事をとらえるならば、神は不全能と言えるし、神と悪魔との戦いと言う事に於いて言うならば、神が不全ではなくこの世が未完成であると言えます。
この世を人間に例えるならば、
子供の時期、中年、老年とあるように、全能は神であるが、罪によりできた地球がまだ未熟であったり、未完成であり、地球
が、この宇宙が、罪の世界で、本来ある天国では、死のとげは取り除かれ、そこには、うえも病もなく幸福だけがあると考察できます。
よって、神が不全能であるのではなく、罪あるこの世が未完成であると言えると思われます。
主イエスを信じる人は真実に至り永遠の命を獲得します。
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