フェニキアの女と主イエスの問答について
当時ユダヤ人と異邦人という隔ての壁は堅固であった。
上述したフェニキアの女が子犬にパンを与えた事について、主イエスが子どもたちに与える。
そのパンを子どもから取り上げて、子犬へ与える事は良くないという箇所が、今回の問題箇所であるが、この箇所は、単に子どもと子犬という事ではない。
その理由は、平行箇所をあげると明らかである。
マルコ7:26~30.
マタイ15:21~28を見るとマタイにこの1節にこう書いてある。
マタイ15:24
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
{主イエスは、世を愛され、御子を信じる人、全てを愛されているが、当時旧約での約束が、救世主がくるとされていたのは、イスラエルの民、ユダヤ民族に対してであり、もちろん異邦人も知っている人もいたかも知れないが、聖書にその人の、使命があり、全て成す技に時があるというように主イエスの使命は、預言者として神として、救世主として、神の民に遣わされたから上述した事をはなされたが、十字架の後異邦人の救いは、12使徒、やパウロに受け継がれた誤解があってはならないのは、主イエスは、全人類に福音を伝える事については、お弟子に任されたのであり、神の民にだけ救いがなされたのではありません。}
フェニキアの女が異邦人であるというだけではなく、この箇所からユダヤ民族、神の選民とそうでない異邦人との関係が子どが、ユダヤ民族、子犬が、異邦人という理解であることを理解しないと誤った理解をしてしまうので注意して読む必要がある。
では、ここで2つの大きな問題が提起される。
1.子どもたちに与えるパンを子犬に与えるのが倫理的に正しくないのに、主イエスがこの事について、フェニキアの女を誉めているのかというの事について
2.ユダヤ人の異邦人という事に関しての、差別ともとれる表現は、旧約聖書には、異邦人の庭があり、異邦人専用の場所があるが、異邦人は、そこにしか入れない。
例えば、美しの門があり、異邦人は入る事が出来ないのであるが、それと相反するように、神は全ての人を平等に扱っているという聖書箇所との整合性について
以上2つの事について、牧師も差別があると吐露する位の難問であると思う。
もし主イエスが差別的な神ならば全人類の救いが実現しなかったのである。
ところで1.については、マタイ15:27を読むとフェニキアの女は、決して、主イエスが言う子どもたちに先にパンを与えずにパンを子犬に与えてはならないという事について主イエスに同意してないという訳ではないという事がわかる。
マタイ15:27
女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
ごもっともです。ごもっともとは、その通りです。
という事であり、フェニキアの女は、柔軟な良い心で、自分の過ちをすぐさま認めているのである。
ああ!私は子どもの食べ物を取り上げてしまい、子犬に与えてしまった。
しかし、その通り間違いであるとして、それとは、別の事として、子犬にも、子どもが食べて落ちる、パンを僅かでも与えて下さい。と言っているのは、背景には、ユダヤ人だけではなく、聖餐式のパンと例えるとして、そのパンを足らない子犬のようなしもべにも異邦人にも与えてはくださらないでしょうか?
という謙遜な姿勢であったし、主イエスの十字架で敵意は、廃棄されるという預言的な意味合いもあったと思われる。
ユダヤ人と異邦人という隔ての壁が、十字架により廃棄されたという事と上述した箇所は、関係なくはないだろう。
聖書で誉められた異邦人は、百人隊長とフェニキアの女が上げられるが、深い意味合いがあると思う。
この事に関して神は、そうとまで言うのならばと関心して、フェニキアの女を癒した。
ところで2について差別という人がいるが、
この箇所は、雌鳥を集めるがごとく異邦人に預言者を使わしても受け入れず、預言者たちを殺したり、神の教えを受け入れないでいた、異邦人の固くなさがあったので、神の民と神の掟を守るという意味合いで、神は、聖別して区別したのであるが、差別したのではなく、異邦人が、神の命令
に従わないから、異邦人が区別された。
例えば、イスラエルを滅ぼそうとしたペリシテのように、その罪が結果として、ユダヤ人と異邦人を分ける結果となり、しかし神は、そんな大罪を犯した、異邦人を憐れみ、異邦人の庭を残されたという視点で、見るならば、神が不平等、差別的なのではなく、
神の選民以外が、神に反抗的であった結果、そうなったと理解すると理解しやすいと思います。
主イエスは、今も生きておられます。
文字で読むならば真実にたどり着かず聖霊の助けにより読むならば、御霊が人を生かします。
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