不正な管理人についてどう理解するか?
この箇所は、相当な難問であり、ブルトマンは、解釈不可能といい、ルター、カルバンも苦し紛れな解釈であると思うのだが、
類推する事からまず、考察してみる事を、試みるならば、答えというかこの箇所の意味合いが理解できてくる。
まず、主イエスが不正な管理人の例えについて、この箇所ゆえに不正の管理人が誉められたのだよ。
という箇所を抜粋して紹介する。
1.タラントの、例え
2.神と富とに仕える事はできない。
この2箇所が不正な管理人の例えと迎合しているのである。
不正な管理人の概要を簡単に説明すると
金持ちの管理人が財産を任されていたのだが、不正がばれてしまい、主人が怒っているのであるが、不正な管理人は、債権者に対して、その負債の証文を書き換えて、不正に不正を重ねて、自分が主人に首にされたとしても、迎え入れてくれるように、負債を帳消しにするという事でお金を作りそれを賄賂がわりとしたのである。
この事に関して、主イエスは、この世の子らは、光の子よりも賢く振る舞っており、かつ他人の財産に忠実である事に関して、誉めておられるのである。
他人の財産に対して忠実であることが不正な財産により富を作り、友達を作る事により、永遠の住まいへと入らせてもらえるというのである。
この箇所は、商売人やセールスマンの思考に近いと私は思う。
セールスマンは、他人の財産に、忠実でいかにしてこれを自社の者とするのであるが、優れたセールスマンは、情報こそお金でありかつ、相手のニーズに合わせる事が長期的な、利益となると理解している。
つまり、ただ売れば良いではなく、次へとつながる人間関係とずる賢さを兼ね備えているのである。
また罪は、負債、
と考えて言うならば、例えば、あれくれ者や罪を犯している人を導く為ではなく、主イエスを信じた後、自身が刺青や強い酒を好んでおり、しかし不正を行い、教会へ通い、負債を蓄えつつ、しかし、不正により友達を作り、救いへと導く人もいるが、この場合2通りのクリスチャンがいる、
1.不正が好きである。
しかしそれで福音を伝え、主イエスを伝える媒体とする人
2.不正を生かし、その人の友達となり、救いへと導くクリスチャン
別に不正をしたいというわけではない。
不正に関しては、あくまでも救いの媒体としているのである。
不正な管理人の例えで言うなれば、厳密に言うならば
1.の人が当てはまるといえる。
上述したことは、罪を負債と見立てた上での不正な管理人の例えである。
1.神が罪、負債を赦す。
2.クリスチャンが不正するが、これにより、友達を作り、救いへ導き、不正を許すように、お願いしてもらえるように画策する。
もうひとつの例えとするならば、今度は、不正な管理人の例えをそのまま、似た形で、している人を紹介する。
といっても、他人の財産を利用して、キリスト教の福音を利用して、不動産の友達を作り、お金や私有財産を貸してもらい、自己の利益とする人がいたのである。
おまけに自分のためにしているのが半分、自己を宣教師として呼んでいるのだから、私は、呆れもしてはいましたが?
商売人を救いへといざなっていたという事は、事実である。
そういう商売人として、利益をちらつかせて、友達となり、異邦人の救いをもたらすという人もいる。
少し不正な管理人の例えとは違うが共通している事それは、他人の財産に対して忠実であり、それにより友達を作り、その不正により福音宣教をするのである。
クリスチャンが近づけない相手がいても、また、相手が罪を犯して、神に近づかないという問題を同質の不正をする事で、その人の友達となり、救いへと賢く導き、自分も儲けるという人がいるという事である。
これらの事を勘案すると、不正な管理人とは、このように、理解して、いくと分かりやすいし、実用的であると思う。
間違っても見習うべきではないが、
ザアカイのような人物、陽気で寛容な人で、かつザアカイと違うが、それに加えて、ずる賢い人もおられるという事であるが、注意すべき事について生かすべき事について考察する。
1.不正な管理人といっても、主イエスは、この生き方についてどのような思考過程についてこれ程誉めておられるのであるか?また救われない人との相違点
2.どのように応用すべきなのか?
1が、とても重要で、上述したクリスチャンへ対して牧師が指導したり導く上でどういう価値観を肯定しどこまでが主イエスが嫌う不正な管理人であるかを牧師は判断してあげなければならない。
例えばルパン三世などとても有名であるが、ルパン三世は、お金目的でもあるが夢や冒険が好きな部分もあるのであり、ある時には死ぬような目をして手に入れた財産をあっさりと捨てたり、それに執着せず寛容である。
お調子者であっても救いのためにならば、その、財産全て上げても良いという観念に於いて主イエスは、ザアカイに対してこ言う。
今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
さて、お金ではなくロマンや夢、救いの喜び故に生きておる人をあげたとして、今度はお金のために何でもする人がいたとする
お金の事、好きな賭博酒のためにならば何でもするしやる気となるのである。
また、注意すべきは、労働と対価という事に於いて周囲への利益分配に於いて、平等にさせるように指導する必要がある。
例えばクリスチャンを利用し引っ越しさせました。
自分は引っ越しする相手からお金をもらいました。
トラックの運転を頼み、運ぶクリスチャンは、確かに献金代わりに奉仕したとしても、ずる賢しこく、自分だけ利益を得るべきではない実際にあることです。
お金に執着しないならば公正であったでしょう。
つまりお金に執着しない人が不正な管理人の例えの方であり、寛容でありかつ、お金ではなく、何か他の御霊の事また夢のようなお金に縛られない生き方が肝要である。
そういう意味合いでいうならば、家族、生活家財産に固執して、貧しい人がいようとあの人の責任であると財産のために執着して
目の前の貧しい人を助けないばかりか、ずる賢しこく、貪欲な人や今まで家族のために仕事して都合良く神を利用して教会の牧師となり、年金と献金で楽して生活しようとする人と不正な管理人は違う。
キリストの香りがする不正な管理人とは月とすっぽんであると思われる。
財産なくなっても他者に財産があるから、そこから、お借りして、自己の利益に還元して、お金ではなくて、自己の役割や何か使命のために生きる。
信仰を持ち、生きる。
お金に縛れずに、時に財産を半分を弱き者に与えたり、100万でもバサリと献金するような不正な管理人を喜ぶのであると思われる。
1.1お金に縛られない執着してない。
2.金のために生きる
1でない人への忠告や指導は、必要となる。
2、について本質的に言うならば、不正な管理人の例えとは、罪ある世の中で、形通りにしても、不正を行うひととは、仲良くなれないし、例えば、漁師に対して丁寧語で話しても疎遠となるように、律法とは、人の秩序を形成したとしても、今そこにいる人たちが罪人であるのだから、卓みで、柔軟な思考や生き方をしないならば、福音宣教にも影響する
人は、ロボットではないのである。
本物の伝道師、宣教師になるには、柔軟な思考と視点が必要であると、私は思う。
机上の空論とならない為の、教えであると理解すると良いと思います。
また、信仰生活とは、寄留者である事を求められる場合もあるが、その事と他人の財産に忠実であることは、関係なくはないだろう。
友を作るということなしに福音を伝えられないという事でもあると思います。
主イエスは全ての人の救いを勘案されておられます。
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