ブルンナー永遠の選びからの考察
ブルンナーは、私達信じたクリスチャンは、神により選ばれたのだという
私達は、1.神の選び
2.信仰による人の決意
人間の責任ある決意
この2つは、ご悟性において相反すると考える傾向があるが悟性は、膝をかがめなければならないといいます。
例えばパウロとバルナバがマルコを連れて行こうとしたが
信仰においての不一致によりパウロとバルナバは、お互いに分かれて旅をしたが、間違っていたのだろうか?
ブランナーは、それは人には、分からないというのですが、私の見解としては、神は、罪を犯すという事においての自由な選択をさせる事はないが、聖書の律法に犯さない事柄においては、私達に自由を与えておられる。
しかし箴言にあるように最終的に人がしようとする事は、悟性により相反する思っていても神の前においてそれは神のご計画であったと捕えるべきであるということである。
神は、見ておられる。
私達が、創造される前から、選びは決まっているが、永遠の滅びに定められている人は一人としていない。
というのも、神は、人類を愛しておられるからだ。
神の熱心、神の根拠なき選び、のみが、私達の救いの根拠であり、自分には、なし得ない、この悪しき世の中から、罪の腐敗と死の破滅からの救いは、主イエスを信じる信仰と選びによってのみ実現できるのであります。
ブルンナーの時代に永劫加罰という教えがあったが、これをブルンナ-は、否定している。
信仰生活を送り、信仰、希望、愛、神の道に生きる人達には、永劫加罰という事に当てはまる事は決してない。
選びという教説が聖書的でありかつ、本来の聖書の、中核をなすものであり、福音の、真髄であり、
永劫加罰は、聖書に反するとまで言います。
しかし、ここで私が、修正を加えるとしたならば、やはり神の御言葉である聖書によってのみであると言える。
付け加えとしたならば律法とは、罪を犯す者には必要な観念であり、選びは、神を恐れ罪を犯さないようにするという事も加味されているという事を忘れてはならない。
何故ならば、永劫加罰とされる者に本物のクリスチャンはいないのであり、偽物がそのような罰を受ける定めとして聖書で地獄の事が書いてあるからだ。
しかし、ブルンナ―のいう事に、疑問を覚える人もいるだろうから、私なりの上述した、事においての答えを書くとしたならば、人が神から離れる場合はあるが、神は、放蕩息子を待つ父親のごとく、人類を愛と憐れみの目で見守っておられる。
神ではなく人が神から離れる場合に、罰が生じるのである。
そう理解するならば、今の話しのつじつまが合うのではないかと思う。
信仰の福音の基盤は、主イエスであるが、私達が疑わないで、信仰生活を送る為、信仰というアイデンティティー自己判断という意味合いに於いて有益であると思う。
しかし、勘違いしてはならないのは、選びと招かれただけの人とは、違うという事であり、選ばれた方は、義を行い、選ばれた人は、愛や聖書の真理を自己流に解釈して歪めたり、律法をおろそかにはしないと言う事である。
だから、主イエスを信じた後に、真面目に、信仰生活を送り、神のか細い声、霊が諸教会で告げることを聞いて、よく守り行う人は、神の道が明確に見えて、1タラント、1000タラント御言葉の理解や奉仕歴関係なく、計画により確実に救われた人と言える。
私は主イエスにあって確信しています。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。