人とは、どんな存在なのか、という事に関して
聖書には、人類最初の祖先アダムとエバの事が書かれています。
人は、神そっくりに、被造物として創造された。
人が一人でいるのは、良くないとして、神は、エバをアダムのあばら骨の一部から作られたのであるという。
人と動物を比較するとしよう。
共通する事としては人も動物にも悟性がある。
熊も助けられたら恩人を助けるが理性はない。
人は、死という事について、理解があって、ロジックを理解しても動物には、上述した観念じたいがないというのも、
人と動物の違いは、神が霊であるように、人には、霊があり、良心が備わっているという事だ。
善と悪を意識しないで、生きる人は、迷いの森の中を歩く人と似ている。
猿や人間との区別は、人が神の霊を与えられているか、理性から来る良心があるかで、判断できるのである。
人にも、利己的な人、利得関係なく、無償で与える人がいる。
人が、どうして、聖書を読む必要があるのかというならば、道であり、命であり、真理である主イエスを知り、神の奥義である。
十字架による救い、恩寵を知り、救われるためである。
そうでないと人は、肉的な欲望や神の御言葉と違う、イデオロギーやヒューマニズムという灯火に惑わされ、彷徨い、何につまづくのかを理解しないで、自己の成功に躍起になるが、人が何処からやって来て、何処に向かうべきかという根本的な問題に関して、無頓着となるならば、年を取るほど、この問題を解決しないせいで、この世の矛盾に悩まされるか、昔の回顧録に執心するようになる。
神の教えを学ぼうとしないならば、真実である主イエスに到達しないし、招かれているだけで、その御言葉を守らない人は、異邦人と変わらないのであるが、主イエスを本当に信じた人は、主イエスという光に照らされ、迷う事が、あっても、救われて行きます。
人類は、第三の目をもっている。
心の目がある。
善と悪を認識できるのであるが、罪に関しての理解が浅い人が多い。
ブルンナーは、罪とは、例えば核となる部分があるとして、その部分が腐敗している事という。
根本的な問題とかの解決や理性により、欲望を制御するという以前に、人の罪は、何とかできる状態ではないという事をしらなれば、その人は、ある意味不幸とも言える。
何とかできるならば主イエスの救いは、関係ないだろう。
自己の、行いによって、救いを成す事は、不可能であり、主イエスを信じるという事、信仰義認される事以外、この罪の問題の解決は、あり得ないのである。
暗闇に座している人々に光が与えられた。
その光とは、主イエスキリストです。
主イエスキリスト御自身を知り、理解し、信じて口で告白するときに人は、真実に救われて行くのである。
人類に罪が入り、死ぬ事となった。
では、何処に活路を人は、見いだすべきか?
それは、新生です。
新しく変えられるという事です。
この世を独房に例えるならば、
まだ主イエスを信じない人は、独房でうずくまる、哀れな人であるが、死んでいる状態でもあります。
しかし、そこから、抜け出すには、
父の声、御言葉にすがるしかなく、その神のか細い声に触れるしかありません。
小説の中の登場人物は、その書いた人以外に、その運命から救い出す事ができないのと同じように、人は、ただ聖書にある神の御言葉を受け入れることで救われます。
私は、ここにいるよと言えるのは、ここに私は、います。
助けてください!
という人だけです。
こう言えるようになるため、私達は、聖書を読むのです。
また、牧師は、説教します
あなたは、神により、神に似せて創られ、そして、サタンにそそのかされ、人類最初の祖先、アダムとエバにより、罪に陥ったと知ることが、新生と大きく関係します。
ここに私はある。
私は、神と関係ない。神など必要ない、善悪の知識を得たから罪が始まり、人は、神から離れたのですが、人は、主イエスと共に歩む道、神の道に至る必要がある。
主イエスに於いて、ここに、あなたは、存在する。
ここに、あなたはある。
となる必要がある。
主イエスに与えられた、あなたと、個々で存在するという事は、違うように、新生とは、主イエスと共に生きる事を指します。
人は、罪人ですが、罪はそのままですが、信仰義認され、主イエスにあなたは、存在するという風に認められて、救われた存在と変えられるのです。
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