ブルトマン非神話化について 聖書をどう理解するべきか。
非神話化という観念を小田垣雅也師は、このように読み、私達に示唆なされた。
非神話化とは、例えば復活や男女の関係ではなく、聖霊により語られた事について、哲学から考察して告知と言う形で、その本質を取り出すのだと言う。
その現代の客観的見解により、聖書本来の神話という事を否定するのではなく、本質を捉えようという事が非神話化である。
非神話化という観念を鑑みて私なりの見解だが、聖書の神話と言う事は、信仰より聖書を理解するならば、神話ではなく、現実であるし、変えてはならないと思う。
そうしないと森鷗外が小説で書いたかのようにという小説の歴史家のように悩む事となる。
何故ならば歴史文学においての証明にキリスト教文学を否定しては、矛盾が生じるほどにキリスト教の影響があるからである。
また、善悪の知識とは、そもそも全てを意味する事柄であり、神と同等になろうとする事でもあると理解するならば、
まだ、人類が知らない事も沢山あるのだと言わざる得ない。
あの使徒パウロがわたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになると聖書にあるように人類は、神により、知らしめない事柄に対して改変すべきではないと言う事、黙示録にあるように御言葉を改変する者は、呪いを受けるばかりか、虚偽の事実を伝えることとなると言う事を鑑みて信仰生活を送る必要がある、
現代科学や本質と言う事と聖書が相反してしまってはならないと言う事である。
それは、ブルトマンが言う現代人に分かりやすく語るという事とも違う事である。
内村鑑三師が言うようにキリスト者であるから進化論をひていし、創造論を肯定すると言うはっきり分からないことであっても神の御言葉だから受け入れるという事も大切である。
人類は、知るべき事を探求したとしても、信仰によりそれが、為されるべきであり、それ以外のヒューマニズムや本質的事実が聖書との整合性を見出す事ができない事もある。
上述したブルトマンの非神話化は、現実という分けでもなく、神話に対しての客観的解釈と言う事であるので、聖書に告知という意味合いでのブルトマンが言う非神話化という事だけで聖書を理解する事は、できないと私は思う。
上述した事から聖書を正しく理解するとは、神話と言う事は、信仰によるならば、真実であるので、そのまま受け止め、倫理的洞察に関して鋭く考察すると言う事が必要である。
倫理的洞察、非神話化という事は、未信徒、異邦人には、必要なことであり、牧師や聖職の任務に関わる物は、現代人に分かりやすく噛み砕いた聖書の教え方をする必要があるし、例えば復活再臨運動などは、教会の文化歴史に迎合し、固着化しつつ、定着化するならば異邦人をつまづくかせる結果とならないと私は理解している。
時代により、本質的に、今神話と言う事としてしか、理解できない物事の解明が為されるならば、それは、非神話化、現実、真実として理解されて行くのだから、私達は、解明されつつある事、そうでない事に於いても、信仰によりそれを理解するとしても上述した2つの視点から物事を見ないならば、信仰により信じる人となり得ない。
計画により、信じて救われた者とされるとは、現在、過去、未来に於いて先ほど申しましたように、あの使徒パウロが言うように、反芻する事となるが、
鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
この箇所を持って理解すべきであるし、注意すべきは、非神話化と言う事ではなく、人類にとって神話も非神話という理解も信仰によるならば、神話ではなく、真実であると言う事、それは人が、最後あの世で明らかにされる事があると私は、考察し、そのように理解している。
ただ幼子のように、はいは、はいは、いいえは、いいえと理解しない者は、必ず神を無視し、聖書を自己の神話や理解で否定し、そういう人は、自己を偶像化し、神と自分、クリスチャンの中でも知っている者と自負する高慢が、うまれる。
知識は、人を高ぶらせる。
人が知り得る事は、神から見ればほんの一握りであり、私達は、時代や本質と言う事だけに囚われないで、常に信仰を持って聖書を読まないならば、狭い道から外れてしまうと言う事しかし、噛み砕いた解釈も神を信じてない人には、必要であると言う事で、今回ブルトマンの非神話化と言う事を紹介しました。
主イエスを信じるとは、はいは、はいは、いいえは、いいえであり、聖書に忠実であると言う事なのである。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。