続編を聖書の一部として良いのかと言う事について
紀元前586年に新バビロニア帝国ネフガデネザル2世により、南ユダが滅ぼされ、紀元前721年にアッシリアにより、北イスラエルが、滅び、両国は、罪故に神に罰せられて、捕囚の民になった。
神殿は、ネブガデネザル2世により滅ぼされたが、エルサレム陥落約50年後、バビロニアが、ペルシア王キュロスに滅ぼされ、エズラ、ネヘミヤが第二神殿を建てたが、第一神殿よりはるかにみすぼらしかったのだという。
ギリシアでは、アレクサンドロス王が、ギリシア全土を制圧し、ペルシアを滅ぼし、アレクサンドロス王の死後、その帝国は、マケドニア、エジプト、シリア3つの王朝に分裂し、パレスチナは、エジプト、シリアの支配下に置かれた。
シリアが、ヘレニズム文化をユダヤ人に強制し、遂にエルサレムの神殿にゼウスの祭壇を設けた。
マカベヤ戦争は、そういう経緯で、起きた結果、ユダヤ人は、シリアより独立し、宗教的自由を獲得したが、ローマ帝国が、エジプトとシリアを滅ぼし、ユダヤ人もローマ帝国のポンペイウス将軍に滅ぼされて、ローマの傀儡となる。
今回簡単に、捕囚後からローマ帝国によりユダヤ人が傀儡となる経緯を書いたのは、聖書で続編とされているマカバイ記に対してこれを新約聖書に入れて良いのか?という事について、私なりの見解があるので、紹介しました。
結論としては、グノーシス同様続編は、新約聖書として認めてはならないと思います。
マカバイ記が新約聖書に入れてはならないと思う理由として歴史の部分を抜粋して紹介しました。
黙示録22:18.19に書いてある内容を紹介します。
この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
このように新約聖書に続編を入れるかどうかと言う事が、クリスチャンにとって大きな問題であるといえる。
では、マカバイについて、
問題あると思われる箇所を紹介しよう。
この箇所は安息日の惨劇と言われている。
マカバイ第一2:37.38
こう言った。「我々は全員潔く死ぬ。お前たちが我々を不当に殺したことを天地が証言してくれよう。」
こうして安息日に兵士たちは彼らに襲いかかって打ち殺し、その妻子、家畜までも殺し、犠牲者の数は一千人に及んだ。
この箇所を読むと分かるが、
神の律法、教えに従った結果に、死ぬ事となるという箇所が問題なのである。
新約聖書、旧約聖書には、罪の結果に滅びると言う事が書かれている。
また、ステパノが殉教した時、神に従った結果に殉教したとあるし、バプテスマのヨハネが、殺されたと言う事があるとしても、問題は、律法を守り行った結果、殺されると言う事が聖書の教えに反していると、思われる。
何事にも時があるという。
殉教したとしてもそれは、その人が完成した後に起きた事であった。
信仰の完成後の殉教は、決して聖書に反した教えとは言えない。
この世は、闇なのであるが、信仰の完成後の殉教は、救いに対して、義のために迫害されたとしても救われるとあり、迫害というからには、殉教もあり得る、そういう意味合いで、聖書の教えに反してはいないが、神は、律法の教えを守り、従う人を守り、悪から救うと言う事において、
律法を守る民が滅ぼされると言う事が、書かれていないと思います。
イスラエル、ユダが捕囚にあったのは、あくまでも律法違反、神に逆らった結果であり、民全体が律法を守らないから、滅ぼされる事実が歴史上にあったとしても律法遵守した民全体の殉教に関しては、聖書の歴史上の中において書かれていない。
民全体が信仰の完成がなされて殉教したのか?疑問です。
神は、義の方であり、一人として滅びる事を望まれないという観点から反しています。
この世とあの世という2面性から見て救いがなされていないまたは、神の義において整合性がないと思われる箇所は、おかしいと疑った方が良いと私は、思います。
聖書は、人の為の倫理道徳という観点で主イエスが書かせている部分がある。
また、歴史を鑑みても、マカバイの後ローマに滅ぼされたが、神に従った者たちであるという事がこのマカバイ記を主イエスが聖書としてお認めにならない理由であると思う。
これはあくまでも私が主イエスとの対話の中で導かれた見解であるので、参考にしてほしい。
しかしこの事や、救いは、聖霊の働きにより明らかになります。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。