noah777のブログ

ミッションノア

神を恐れる

神を畏れるとは畏敬の念ですが、聖書では神を恐れなければ、どうなるのか
訓戒が成されています。
列王記上17~18
列王記下8~9


昨日勝浦牧師が主催のミツション海老名行きました。
海老名は、しゃれた町で、昨日は何か音楽イベント
してましたよ。
そんな訳だから人がいっぱいでした。
でも路傍伝道参加者はしょっぱい状況でした。
伝道後は甘いドーナツとコーヒーを神様からご褒美で
頂きましたけど、その他西郷隆盛がクリスチャンである
話しやプロテニスプレーの錦織 圭のコーチマイケル
チャンがクリスチャンである事を横張長老のメッセージ
で教えてくださいました。
その中でマイケルチャンの証を紹介します。


マイケルとキリスト教信仰という証しがのっていました
「マイケルは、状況が不利な時でも 神が見守ってくれていることを知っている
信仰がマイケルの生活・精神・人間性にとって最も重要なことだ
テニス界で超有名になっても 成功に酔うことなく そのルーツを忘れないようにしている 。


列王記には、エリヤという大預言者がいました。
その預言者とバアル神という偶像の存在しない悪神と
エリアが対決し勝利し、そのバアルの預言者をエリア
は、滅ぼしました。
ところが、イスラエルの王アハブとイゼベルは主の預言者を殺し、エリアの命をも奪おうとしました。
アハブとその悪妻は主の前に悪を行いました。
そして悔い改めるどころか正しい預言者を迫害しました。
めんどりが雛をあつめるがごとく主は預言者を遣わし、
悔い改めさせ、神の愛のを示したのに彼らは反逆しました。


預言者エリアの次の大預言者エリシャは、当然イスラエル
の蛮行を知ってしましたが、アラム王ベンハダトの後ハザエル
が王となる時、エリシャは泣きだしました。
イスラエルの人々に災いが来る事を預言しました。
神は、このような、罪を犯すイスラエル、ユダの民を愛を持って
赦しつづけました。
今でもめんどりがひなを集めるごとく人々を愛している
かえって来てください。 かみのもとに神を信じてください。
私達がなぜ神を恐れる必要があるのか?
それは、神の十字架の無条件の愛を知りながら、それに背くならば、
イスラエル王アハブの子孫をイスラエルの王イエフがエリヤが
預言したように滅ぼしました。
そして、バアルに仕える者達も一掃しました。
この箇所を読みあなたはこう思うはずです。
バアルに仕えたアハブ王とイゼベルは悪をした事の報いを受けた
のだから滅びたのであると
聖書を読めば、ノアの洪水、ソドムとゴモラなど何度か
神は人類が悪にそまるとその者達を滅ぼしてました。
では、神はイスラエルを愛してしなかったのかというならぱ、
エリシャが、イスラエルの為に涙を流したように、神は涙と正義
の怒りを持って悪に染まったアハブの一族を殲滅しました。
今語ったメッセージをきいてあなたは当然私をこのメッセージを語った私を悪い人だとは決して思わないはずです。
ところが、今日の教会では、教会の罪の問題について敬遠する傾向が
あります。
もちろん名指しで、ストレートに注意すれば、言い方によりますが
よくは思わないでしょう。、
箴言の書、コヘレトの書は訓戒書です。
人の失敗談や例えば神の民の中で生じた問題などを教訓にして出来上がってきたものが訓戒書です。
だからお互い戒め合う事も大事な事です。
また。今の教会は神の教えを学ぶのは礼拝や祈祷会だけで、それ以外で聖書の話を嫌がる人がいるのを私は知っています。
この間もある教会で、そのような方がいました。
また主・イエスは宮清め神殿で商売をしていた人達を追い出しました。
私の家は祈りの家でなければならないのにあなた方は強盗の巣にした。
ところが最近いった教会では、当たり前のように野菜を売る教会とは


関係ない八百屋さんがきっと教会の敷地が広いから頼んで商売させてほしいといったら、今の世の教会は残念ながら、神の御言葉どおりに
信仰してないので、また悪のヒューマニズムが入り込み、八百屋が
かわいそうだから、教会で商売する事を礼拝がある安息日にゆるしたのでしょう。
石川五右衛門が何をしたか。
義賊と称して金持ちの蔵からお金を盗み貧しい人に配りました。
それは悪い事ではないのだと言える人はいません。
石川五右衛門が義賊であったというのは伝説というか本当のはなしか
さだかではありませんが、ヒューマニズムという新しいサタンの誘惑は、人の良心からくる矛盾を弁証的に解釈させ、
それが、矛盾から来る正義であるかのように誘惑を教会に仕掛けてきています。
そして、最大のサタンの狡猾の罠ここが一番大事な事ですが、
1.教会の日々の悔い改めを遠ざける事
2.牧師神父、信徒教会や社会で起きた悪の業を教会で教えを事学ぶ会の中で語らせないように仕向ける事
この2点で教会は大きく攻撃を受け敗北している状況です。
例えば、私が人の名前教会の名前を言わす゛信仰の問題を指摘すると
私が人を裁く人だと勘違いし、口も聞かなくなる避ける人もいると思います。
しかし先程申しましたように、訓戒とは、人の失敗や過ちを示唆するものであり、私達教会は悪に打ち勝つため討論が必要になります。
また悔い改めも重要な事です
なぜ社会人が酒を飲み行きつけのスナックへ行くのか?
それは、酒を飲んでれば、無礼講で自分の罪や人生でうまくいかない
事について、吐露しやすく、スナックもそれも含めた上で営業
しているからです。
早く言えば、キリスト教の罪の告白の代わりを果たすばかりか酒のんでカラオケして楽しいのでスナックや水商売が古来から繁栄している
のです。
罪の悔い改めは難しいですだから、教会は、牧師神父に守秘義務があるだけではなくそういう社会での不満を聞いてあげる仕組みが必要なのであります。
また私は、会社名や教会名その人の名前を入れて話しをしてはならないと思いますが、教会であった問題について、先ず信頼できる兄弟と
相談したり、聖書を開きディスカッションする必要があるのです。
しかしこのような事をする時を設ける必要があります。
本来祈祷会、教会の学び会や何人かで話し合うのが良いと思います。
論語には、だれでも人にしてもらいたくない事はしてはならないとあります。
人にしてもらいたくない事をしてしまうのが人間ですが、その事が
誰かに指摘してもらわないと分からないのもまた人間です。
教会の中では、社会人は、常に明るく人に不愉快にさせない事そういう事が教会でも大事なのだという事は間違ってはいませんが、罪に苦しむ人達が教会に来て相談したりした時に話しを聞き、彼らを助ける事が大事です。
しかし、秩序はあります。
信徒一人一人にこのような事を牧師は教えるべきだし、批判が中心
となり、悪口と神の訓戒話は分けて考えなければなりません。
霊的成長の低い人には、義人が正義故に教会であった事を語るとその人はいつも嫌な事ばかり言う人だから離れよう。
今の若いクリスチャンは、ゴスペルしたり賛美を主体とし、集会にいる事を神の奉仕と思い、
そのように集会や賛美で楽しく礼拝する事を望むけど、教会で起きた問題解決なしに真の教会真の救いは成就しないのであります。
私達は罪と向き合う必要があります。
そこから逃げてはなりませんる
教会の罪を知り、くさい物にはふたをして知らないふりをして生きていても神は喜びません。
よく聖霊が何とかしてくれる、祈りが大事という人がいます。
それは事実ですが、偽りの祈りに対して私達は注意が必要です。
祈るだけで終わる祈りもあります。
しかし祈り愛の実践行動に移す事それは神の恵みですが、真実に祈った時に信仰が働き心の荒野に神の道が示されそして、神と共に歩む
時あなたは主の聖霊に満たされ、喜びで満たされます。
私は主・イエスにより色んな苦難があり、失敗を誰よりも多く経験したかもしれません。
ダビデも髪の数ほど罪は多いといいます。
義人は、罪を改め信仰によっていきるです。
私は、路傍伝道する理由は、このままいけば、信じていない
人は救われないからです。
だから私は主・イエスを述べ伝えます
生きているかぎり
なぜならば、それが私の救いの生きた信仰の証であるからです
主・イエスを信じるならば私達は救われます。
新天地が待っています。
悪にだまされてはいけません。
あなたの心は良心は知っています。
聖書の神がいる事を神の御言葉が真実である事を


教会に行きそしてあなたの救いを獲得してください。
主の十字架を信じてください。
信じるならばあなたには新天地が待っています。