頭で考えるのをやめ心で考える事の始めよう
おはようございます。
今日はいい天気ですね。
後ろ見てみたら曇りで今にも泣きそうな
天気でした。
曇りでもこういいましょう。
明日もハレルヤ今日ももちろんハレルヤですね。
兄弟達とあいさつを交わしましょう。
パウロは使徒のなかで誰よりもキリストの為に苦難を受けました
が、誰よりも人の愛や親切が必要でもありました。☺️
私達の信仰生活もそうです。
私達が神と共にあゆみ、リヴァイヴァルを為すために必要な事は、兄弟の励ましや協力が不可欠です。
説教を聞き、霊に燃える人が集まり、愛の炎を燃え立たせ、その愛の炎が心の冷ている現代人に注がれて、伝播する時、神を信じてない人達が感化されて救われて行きます。
この事をしんじますか?
アーメンですか。
さて、今日は精神の心の歪みを紐解き、その苦しみから解放する
すべを主に祈りメッセージしていきたいと思います。
私は、精神の専門家ではありません。
しかし、教会には、多くの精神疾患を持つ方が、牧師や信頼できる
信徒に助けをもとめてきます。
だから、この事についてメッセージしています。
また私はクリスチャンになる前から、人を助けたり良い事をするのが大好きな方でしたので、精神的に病んでいる方と電話なりメールで話したりします。
だから心の病いになる人の事が少づつ分かるようになりました。
私が知った事を理解すると多くの精神疾患の病が神により癒されるのではないかと思います。
この間も女性の方で、うつ病にかかっている方とのやり取りで感じたのは、病気の人は、快楽や欲望中心で自己中心的です。
人はロボットでは、ありません。
だから、愛や正義、また学問を学びするのと同等に必要なのは、社会に貢献する事を孝行低順し人に仕え謙遜を喜びとする必要があります。
また聖書の御心を為したり、
律法をまもる事が大事です。
自我は肉的な事貪りから生じるからです。
この自我が仮面となり、人の精神と神の精神の隔てとなる場合があります。
ところで、主・イエスは御心に叶った人の精神の病をいやせます。
御言葉によってです。
カラシダネ一粒の信仰があれば、桑の木が根こそぎ海の中に植われと言えばにそのようになるのですから、何でも神はおできになります。
しかし問題は、人の心に悪と善があります。
主が仰せのとおり厄介な事に、人の悪も増大しやすいし、人の善も増大しやすいです。
また、善と悪の差のある人ほど病気になりやすいのだと感じます
フロイトが言うには、人間本来の本能イドと自我
があり、エゴとは、ギリシア語で自我と言いますが、それに対して理性を超自我と言いますが、上述した心の構造が人には、あります。
この超自我があるから人本来の生き方ができるのです。
また、人間には性欲に関する問題があります。
幼少の頃愛を受けれないと様々な精神疾患になっていくとフロイトは思ってました。
しかし、私が主に祈り導かれた答えがあります。
それはなにかと言うとモーセの十戒にあるように、本来人に備わっている貪りという罪が、人に悪影響を及ぼすという見解に私は達しました。
エディプスコンプレックスのひとつの性欲が、父への嫉妬、母への愛を持ったり、するという事に関して事実もあると思います。
しかし、愛情を受けない事で様々な精神疾患になると言う説明では様々な精神疾患の説明としては、整合性が合わないと感じます。
仏教でほ、108の煩悩があると言います。
よく執着するなと言いますが、これらの解釈が人の病<の解決に大きく関係する事であると思います。
貪りがあるから人の物を欲しくなり、それは十人十色で皆違うのであります。
ユングがフロイトの意見とぶつかり、ユングがフロイトから離れた原因にも上述した事が関係したようです!
私が思うに貪りから来るわるい執着が私達の心を歪めてしまうのであります。
ユングも確か違う面においては、フロイトと同じ見解であったと私は思うのですが、
フロイトの本から感じた事ですが、人はこの世に於いて私達は未発達である存在だという事が言えるのではないかと思います。
だから、健康な人でも突然犯罪を犯してしまうのです。
フロイトは第一次世界大戦が起きた時こう言いました。
20世紀の世の中で、時代も文明も成熟したこの世界で戦争が起きよう
などと私は想像だにしなかった。
長い歴史をかけて幾度となく革命をおこし、より文化的な暮らしを望
んでいた人間が憎しみにかられ、残虐性を発揮する
人類は文明化したように思えたが人間の本質は変わっていない
という結論は聖書を読み聖書の神の表している罪と一致していると思います。時代が変わっても人は自己の都合で争いを繰り返し、罪故に文明は幾度
となく滅びていったわけです。
またユングは集合的無意識を定評した方です。私達人間には、聖書を研究する学者が言う本来的自己という存在があります。本来人は神に作られています。しかし人は自分のスキル能力により人間関係を定め、色んな人格が形成されていきます。
だから、私達は仮面をかぶってしまっていて本来の自分、自己が常に他人から攻撃された状況でもあると私は思います。
ところで、ユングは実際に黒人で太陽を拝む自然と一体化して生きる人と話し生活して、西洋の拝金主義、物質主義で物欲にまみれた複雑な現代社会の中で生きる人との比較研究した結果、一つの事を見出します。
それは、何かというと黒人たちは何ももたないでいますが、かれらは大自然の愛を知っているという事です。
その理由は、恩恵を受けるだけで
なく、その恩恵を返す心のあり方で黒人は生活を送っているからなのだと思います。
そしてそんな生活をユングはしました。
そこから上述した事を学んだのです。
ユングが気付いたのは、現代社会の自己の為に生きる生き方や個人の物事だけに執着する罪深い生き方により人は大事なものを失っているという事です。
文明が進歩しても、個人の持つ全体性に気づいてないという事にユングは気づきました。
また、ユングに知恵ある黒人は、こう言ったそうです。
白人は常に欲望している。
彼らは一体何を求めているのだろうか?
何が足りないのだろうか?
我々には、彼らがほしがっている物が分からない。
我々は白人を理解しない。
彼らは気がくるっているようにみえる。
ユングがなぜそう言い切れるのか
と聞くと黒人の知識人はこう言いました。
我々は心で考える
我々は心で考える
白人は頭で考えるのだといいます。
私の信仰の先生はたくさん祈る方です。
神に対してまた人の為に祈ります。<その結果上述した黒人の知識人と同じ見解に無意識に到達していると言う事に最近私は気づきました。
その信仰の私の先生とはもう長い付き合いなのですが、その人が私に、頭で考える信仰ではなく、心で考える信仰という事をよく言います。祈りは神との対話だけではありません。
祈りは、神の為人の為に捧げる行為でもあり、だれかの為に祈る事でもあり、そして、祈りは私達の祈祷でもあります。
祈りは捧げる事でもあり、また神の声を聞く事でもあります。そして神と共に私達が生きれるようになる為に祈りはあります。先ず私がお勧めするのは罪を認める事をおすすめします。
罪があなたの人生の願いを阻害してます。
聖書を読むと健康な人でも神の前に正しくなく罪人であると書いてあります。
人は常に黄金の聖書の御言葉を必要としているのだという
事を理解してください。
多くの精神疾患を抱える人は健常者よりも自己中心的であり、
感謝を忘れ、人の為に生きるようとしません。人や神を利用し、善悪問わず、自己がまず幸せになり、その後に人の幸せを願います そう言う生き方をしてると心の狭い人になります。="" しかし最上な物を私達は人に与える必要があります。="" それが愛だからです。="" 主・イエスが十字架で私達に永遠の命を与えてくださったようにする必要があります。="" 今日はあえて御言葉を入れませんでした。="" といっても御言葉を入れてはいますが、="" 聖書の何箇所とは入れませんでした。="" それは、私はサタンのわざをよく心得ているからこのようにしたのです。="" 頭で信仰してる人は、神の霊感によってこの事は語られてないと批判します。="" しかし知恵の正しい事は、その行いが証明するし、本来聖書の言葉は頭ではなく、心ハートで読むものである事をりかいしてください。=""
精神疾患や問題のある方は、聖書の御言葉に反しているが故にその人
の偽り仮面が増えます。そして人は大なり小なり頑なであります。
神であり主・イエスの神の愛なしに救いを得る事はできないし、救われていても不幸な人が多いのは、その為であると私は思います。今日は精神的な心の歪みからというはなしをさせて頂きました。主の十字架の愛に理屈はありません。
あなたが信じたのは頭の信仰ですか?それとも心からそれを聞き信じたからですか?憐れみの心を持ち、大自然と同調するならば、神と同調するならば何もなくても幸せになれるのです。
人の幸せは、自分の中に始めからあります。☺️
主イエスを信じるならば、その事がわかり天国へ入ったものとされます。
救われるのです。
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