最近の教会の説教聞いて思う事
倫理的で教育的でありかつ、政治的プリンシプルから洞察された説教を聞くのは、誰でも心地よいと思うのではないだろうか。
ルターが改革を行った当時カトリックでは説教がなされていた。
それは倫理的道徳的な物事に関する事であるという。
主イエス様は、世界の創造主であるが、世には、ソクラテス、孔子、日本では、吉田松陰やキリスト者では、内村鑑三と偉人とされた人達も倫理的な事に於いて、秀いでていたがため、世の中で評判が良かった。
しかしカトリックでは、倫理的な事を教えていたが、宗教改革が必要とされたのである。
何故ならばキリスト教は、より良い生き方を模索したり、研鑽するのではなく、信仰の意味を知り、祈り行う事が恵みで為されている必要がある。
正しい信仰による理解により、信仰が成長して救われるからだ。
ヨハネ16;9福音書
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと
とあります。
神を信じない事、それが罪なのです。
主イエスが私達の為、十字架に架かかり、3日目に死人の内よりよみがえり、天に登り、全能の父の座したまえり、かしこより来たりて、いきるものと死にたる者を裁きたまわん。
この神の業を信じる事、神の命令にききしたがい、守る事や、信仰の意味を知るという事で、人は救われています。
倫理やロジックで、救われる訳ではありません。
全ては恩寵なのです。☺️
複雑ですが、信仰による行いや神に従う信仰による恵みにより、主イエスを信じた時点で救われています。
あれ?救われていた。
とも言えると思います。
だから、教会は人間の道理や、常識を捨てて、ただ、ただ、神の聖霊様の導きに従う時、人は、満たされ、癒され、救われるのです。
それがない人間のロジックで教会をたてあげても、満たされないし、喜びがなく、賛美も小さくなります。
救いは目にみめえずとも、神に従う信仰により得られるものだからです。☺️
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