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ミッションノア

フルドリヒ・ツヴィングリー 牧師論について

フルドリヒ・ツヴィングリー 牧者論(ツウィングリー)
1524著作
牧者論を書いた目的
真のキリスト教的牧師と偽りの牧者をいかにして選定すべきか


まずこの牧者論を書く資質がある人は神を畏れ学識豊かな人であるという。
1. 牧師であるということについて


羊の牧者として遣わされる者は、御言葉のみを範例として仰ぐ必要がある。
牧師は、導き手、我々を無知という暗黒の谷と人間的教説という捕囚身分から引き出し、神の知恵と子として、の自由という光の中へ連れ出す存在でなければならない。
牧者であるということは、肉を喜ばせる(結婚して生活をしたり、生活の利便の為)誘因ではなく、すべての肉的な誘惑、父や母家族に対しての愛着、その他己自身、すべての思い上がる権力、神に味方しない全てのものに対する永久に絶える事のない抗争なのである。
たとえ司教代理であろうとも神の代弁者と言われていても神の御言葉に歯向かうすべての人殺し、魂の人殺しに対しての敵であり続けなければならない。
2. 敵に対して


列王記上13.4ヤロブアム王は、悔い改めなかったので手がこわばってしまうまた、モーセと争ったパロも神に敵対して罰せられました。
牧師の唯一の目標は、彼らがそのもくろみ、悪だくみから引き戻されることである。
3. 悪についてまた偽りの牧師に対して


善を悪と呼び、悪を善と呼ぶ者たち御しがたい馬のようにあまりにも長く悪事に馴染んでいる人に対しては真理の言葉を持ち出し祈り拍車と鞭とは御棒を持ってしなければ、彼らを前に進ませることは悔い改めさせることはできない。
たとえ彼らが悪い牧師権力から離れ去ろうとしないにしても、彼らに警戒することを学び、かくして権力とおごりと誤用は、時がたつにつれ廃されて没落するでしょう。
4. 戦う必要性について


ルカ2:34
キリストがシメオンの腕に抱かれ、この世の救い主であると証されたとき、シメオンがマリアにいった。
「ごらんなさい。この子はイスラエルの多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせるため、また反対のしるしとして定められています。そして、剣があなたの魂を突き通すでしょう。それは、多くの人の心の思いが示されるようになるためです。」
それ故に牧師は知らなければならない。 その牧場(教会)にいる者の内、ある者は罪のうちにおり、他の者は、立ち上がっている。また、牧者は、いつでも、不信仰な者達の反対を受けるのである。
肉的な人間は、神の霊的御言葉を受け入れることができず、かえって、力を尽くしてこれと戦うのである。
第一コリント2:14
そこからして、牧者はいつも危険にさらされており、神の言葉に敵対する者らの追跡を受け、彼の父母、近親者は、彼がこの世によって軽侮され、拒絶されるのを見なければならない。


5. 牧者は、家族や肉親であろうとも捨てて、神のわざに励む必要がある。


それとは反対に神のみわざのためであるならば、牧者が父母を捨ててこれを顧みないことも必要となろう。
ヨセフとマリアは3日間も心配してその子を探しまわった末、やっと主・イエスが学者たちの間にいるのをみつけた。
マリアが主・イエスをとがめて「子よ!どうして私たちに対してこのようなことをしたのです。
私もお父さんも心配してあなたを探し回ったのですよ!」
と言ったときキリストは答えられた。
「私を探すとはどうしたのですか? 私が父の家にいるはずなのをご存知なかったのですか」
それだから、牧者も父や母への配慮のため身を誤ることなく、子や妻、兄弟、姉妹、友人のためではなく
神のためのわざを成さなければならない。
また、牧者は父母の干渉権力の干渉それにより、御言葉を手加減したり、左右したりしてはならない。
愛する母マリアが婚宴の席でブドウ酒が足りなくなって助けを求めたときキリストは、一見するときわめてつれない返事をなされた。
「女よあなたと関わりがあるか」(ヨ2:4)
見るがよい。
牧者は厳しい心で牧場を指し示すべきで、父母からといえど、人間的な指図や干渉を受けてはならないのである。
それゆえにもし彼らが頑なに考えを曲げず、神の御言葉に従わない場合牧者は彼らの敵となり、彼らを捨て
て彼らを憎まなければならない。
マタイ10:34
私が地上に平和をもたらす為に来たと考えてはならない。
私が来たのは平和ではなく剣をもたらすためである
私が来たのは、人をその父に、娘をその母に背かせるためである。
ルカ14:26
だれでも、私のもとに来て、しかも、父、母、妻、子、兄弟姉妹、さらには自分の命までも憎まないならば、
私の弟子にはならない。
神によって愛し敬うようにと命じられている父母からさえも別れ、これを憎むほどでなければならない。
実は、この命令はすべての人間に与えられているのであるが、第一義には、牧者にあとはまるのである。
ここまで、牧者がいかに父母その他から自由でなければならないか、また彼らをどのように考えなければ、ならないかを目にした。
彼らは自分の子が地上で栄誉ある生活を送ることを期待してはならないのである。
万一、彼らが牧者を誘惑し、道をあやまらせるようなことがあれば、牧者はかれらと戦い、敵となり、袂を分つ方を選ばなければならない。
牧者はどうあるべきか
誰でも私に従おうとする者は、自分自身を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従いなさい。
自分の魂を保とうとする者はそれを失う。或いはダメにする。
牧者は自分自身を捨てなければならない。
人間というものは、いつでも何者であるかを欲し、何かをしようとする。
しかし、牧者は自分を農奴、奴隷のごとくみなし、自分自身を放棄し、神の命じられることだけに、目を向けなければならない。
そのようになって、はじめて十字架について語ることができるようになる。
牧者は日々十字架を負わなければならない。
日ごとに困苦が彼に降りかかるからである。
自らそれを負いこれを回避してはならない。
人が自分自身を捨て、ただ神のみを見上げる時、自分自身を捨てていない、きわめて多くの者を日ごとに目にすることだろう。
両者の間には、火と水との間にあるような争いが起きるのは当然である。
ガラテア5:17
肉は常に霊に逆らい、霊は肉に逆らうからである。
肉もまた真実で義なるものを受け入れ(不純物のある人) それと時に協力し、進んでその内にとどまるかもしれない。
しかし肉のその本性からして、神の技に対する見せかけなので、確かに、人間の前では神を畏れるふりをするだろうが、実は神に譲歩しない。
しかもなお、本当に自分自身を捨てられたキリストの前では、いつまでも、隠れたままでいるわけにいかない。
主・イエスは、どこに自我欲が隠れているのかたちまち察知するからである。


6. 心の在り方が定まったならば、説教をし、罪と救いを宣べ伝えなければならない。
祈り行動しなればならない。また罪に関して行為に関して罪があってはならないし、細心の注意を払えなければならない。
そうでないと信仰の弱い人は牧者のふさわしくない行為によって神の御言葉から引き離されてしまうことになる。


7. 権力者、為政者であってもサムエルのように神に従い正しい判断をしなければならない。
神は、預言者サムエルを通してイスラエルの王であったサウルにアマレク人を老いも若きもその家畜すべてを打ちこわし、これを欲しがってはならないといったのに神に従わなかった。
サムエルが憤慨するとサウルはこういった。
「私は神の声に従順でした。 アマレク人を撃ち殺し、その王アガクを生け捕りにしました。
その際に民はいくらかの物と家畜を取りましたが、それは神に犠牲としてささげようとしたからです。
命令違反をしつつ、人の勝手な義を振りかざすサウルに対してサムエルは叱責した。
神は捧げものその他の犠牲を喜ばれるであろうか?
従順は犠牲にまさる。
神に背くことは占いや魔術の罪に等しい。
あなたが神の言葉を捨てたので、神もまたあなたを捨て、もはや王と呼ばれないであろう。
王であろうとも牧者は見過ごしてはならない。
ダビデ王がウリヤの妻と姦淫を犯しその夫を死なせた時、預言者ナタンは神の厳しい審判を伝えた。
しかしツゥィングリーの時代も強い者にまかれ、不倫や悪事を行う権力者に叱責するどころか、かえってしばしば助けている。
悪事が日常茶飯事なのに、偽善を誇ってやまない。
エゼキエル34で自分自身だけを養う牧者をどうして信頼できるのかという。
牧者は働き人としてどう生き神に信頼すべきなのか
病をいやし、神の福音を伝え、悪霊を追い出し、働きをしているのならば、財布の中に金も銀も銭も
持つな。
旅のための皮袋も持つな。
働き人が食を得るのは当然だからである。
と記されている。
ここで、ただ真摯に働く決心だけ主・イエスが望んでおられることに注目せよ
牧者が誠実に働きさえすれば、必要なものを見出し、不足を感じないことは確かだからである。


8. 牧者は神への信仰と確信がなければならない。
あなたは、唯一の全能の神がいますことを信じるか。あなたの神が主・イエスであり父であることを信じるか。あなたはすべての信頼を神におくか。あなたはそれでは、神があなたに命じられることは、すべて神が成し遂げてくださることを疑わないか。あなたは神を父と言うからには、疑いなく神を愛し、その求められる所にすべて従うか。神を愛するならば、あなたは、その御名が少しでも卑しめられること、その御言葉を信じられないこと、人が邪悪にもそれに逆らって生きることを許容しないであろう。
自分の肉親の父が誹謗されるのを忍ぶよりは死ぬほうがましであると同様に、天の父の名誉が汚されるのを黙認するよりは、いっそのこと死を選ぶであろう。
神の言葉が不滅であると信じているならば、そのために生命を捧げることの出来ることが、最大の名誉であるということは、あなたもよく知ってのとおりである。
死を恐れることが少なければ少ない程、。あなた内の信仰は一層強いこととなる。
正しい信仰と神への愛の存するところでは、神のために死ぬことは益となり、誠の命の発端である。
また、神の言葉をはっきりと告白した故に、命を失うものは打ち負かされることなく、この世の生の愛着故に神を見捨てることもしない。
重要なのは、その時私はこのために殺されるとはいわない。
それは肉の声だからである。
正しい神の愛のある所に外なる炎をも消えない。
信仰と愛が不可欠である。


9. 牧者は、正しい信仰と聖霊による愛を保ちつづけられる人でなければならない。


10. 偽りの物事、偽りの牧者や権力者を見極められる人でなければならない。(偽りの牧者については割愛しました。)


※ 宗教改革著作集5から抜粋しましたが、幾つかニュアンスを自分なりに変えた所があるのとツゥィングリーが語っている事ですが、順番がばらばらだったので、わたしなりにツウィングリーが書いた要点をまとめて書きました。


主・イエスを信じるならばあなたは救われます。
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