noah777のブログ

ミッションノア

島崎藤村の破壊から誓うという事について考えてみた。


昔白人と黒人の差別問題があったが、日本でも穢多という人種がいた。舞台は信州、長野あたりだが、読み終えて中々の、名作であると思う。

一度読んで見るといいかも知れない。

概要しか書かないが、穢多であり、高等学校の師範であり、学校の先生である、主人公丑松と穢多でありながら、解放運動家で著書も出した、

先生と言われる、解放運動家、猪子蓮太郎と穢多である、主人公が主軸となって、物語が展開されている。

穢多とは、葬儀や牛解体など人がいやがるような仕事をしている人達で乞食よりも蔑まされていた。

縁起の悪い存在不気味な存在として見なされており、世間からは、毛嫌いされていた。

父は牛飼いとして生涯をむなしく終えたが、父は丑松に教養あるものとして世間に称賛される人物になってほしいという願いを託し、穢多であることを話してはならないというが、同じ穢多で、先生と尊敬する猪子蓮太郎にだけは自分が穢多であることを話そうと思った矢先に猪子蓮太郎が命懸けの政治活動故に命を落とす。

それにより瀬川丑松は、自分が穢多なのだと吐露して、学校を追われてメキシコで農家をするため新たなる地に立つ物語なのだが、穢多同士の友情、穢多であったと主人公の丑松が告白しても愛してくれる思いを寄せている女性や同じ学校の先生との友情物語で肩書きを越えた人と人との関係に感動を覚えました。

友人に、穢多から教育者がでるはずもないという考え思想があり、穢多を毛嫌いするが、穢多の丑松を理解し、憐れみ恋愛関係にある、お志保も貧しいながら、そんな丑松を愛するのである。

こうして物語は、愛と罪の狭間にあるこの世の中の闇そして愛を描いている。

ところで現代でも先入観で物事が判断されてはいないだろうか。

本質的には、人がいやがるゴミ掃除や葬儀などの仕事とるに足らないとされる仕事も尊敬されるべき仕事であると思うし、肩書きではなく、その人の能力で判断されなければならない。


しかし、現代資本主義の欠点は、需要と供給によりお金がもらえ、学歴の高い人達が偉くとるに足らないとされる人達の存在価値が否定されているからお金の価値も低い。介護などや非正規雇用など仕事は低賃金であるのは本来どうかと思う。

金持ちだけが幸せとなると思われる。

ところで、この現代の世の中で聖書の教えは、都合の良い部分だけピックアップされて教えられてはいな

いだろうか?

臭いところには、辛いところには、蓋をしめてはいないか?

また知らぬ間に仕事と、お金の問題から差別が生じたり、精神的病により働けない人、学歴 が中卒で字が書けない人を差別してしまうのが人間だが、悪魔はここを狙う狙われた本人も気づけないし、冗談をいれたり、柔らかい言葉で語ろうと差別した心は言葉となりでてしまうのである。

主は人を区別しない

十字架の救いは人を区別しないのである。

今からでも遅くはない

あなたも主に従い救われてください。