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ミッションノア

労働と対価、献金について

吉さん

労働と対価と献金について

キリスト教の牧師は労働と対価ではなく全世界の創造主であられる主イエス様から与えられる謝儀であるというが、モーセの十戒には、汝盗んではならないとある。

働きに応じた献金を学歴関係なく頂く必要がある。

神は公義と公正を、重んじておられる。

冒頭に述べた労働と対価とは、マルクスが資本論で書かれている事であるが、昔は、農作物を国の税金として納め、残りが農家の収入となったが、もっと前には、金ではなく物と物を交換していた事もあった。

それに価する物の代わりがお金であり、近年は、会社に労働を提供し、その対価として、金銭をもらう仕組みができた。

銀行へお金を預け銀行は企業にお金を貸し付けその利息で利益をあげる。

ところで教会の、資金は、信徒の善意ある献金でなされている。

では、献金とは何かを私達は、考えて見なければならないと私は、思う。

献金とは、何かというと

1.神の働きのために必要な建物、物全般

2.聖なる者とされた聖職者への、給料(謝儀)

牧師や神父が謝儀を頂いているが、宣教師や伝道師も含まれる。

3.貧しい人達や被災地の方達の為、全ての人々が最低限の生活を営む為の資金

上述した事のために献金という物がなされるのであり、厳密には、この献金は神の物であり、私達は祈り、神に聞き適正な判断をして献金を用いる必要がある。

しかし近年の、日本の教会を見る限りにその献金が正しく用いられているのか疑問を感じている。

まず牧師だけではなく、一般信徒も教会の働き人であるが、一般信徒の場合、牧師のように謝儀を頂く事はしない。

大きな500人を超える教会では、牧師や福牧師、事務員、執事などがいる。

牧師以外は、献金をもらえないのは、労働と対価という意味合いで不正でないかと言うならばそうではありません。

牧師や聖職者は、神の働き人で人々を善意に対して示唆し、精神的な指導者として、また福音宣教をする者として、人々を正しく導くという仕事があるので、他の人々と違い主イエスの為に真理を解き明かししたり、様々な仕事をなされます。

信徒は神の仕事ではなく、一般の仕事を世の中でして給料を頂きます。

神のために働くといっても、働くマルタと主イエスに御言葉を聞くマリアの関係のように、マリアのようにすべきと主イエスが仰せになられたとしても、それは、牧師がすることとされていて、一般信徒は、働き人としてマルタのように仕事をし、日曜日に集まり、牧師から精神的な指導や導きを受けるように聖書で書かれています。

信徒も教え合うという事や証をしますが、

牧師が説教するという事とは違う意味合いで戒め合い、教え合います。

また、信徒にも、賜物が与えられ、神から聖書で幾つかの役割を与えられています。

1.献金、

2.献身

3.癒し、預言etc 

これらは神へ献金と同じく救われた事日々の生活を、守って頂いているという神との関係の中で行われており、

労働と対価で言うならば、天に富を積む、徳を積むという意味合いがお金の代わりとなっています。

神からの救い、生活を守って頂いているという事がお金を信徒が頂かない理由です。

聖職者は、働くといっても人々を真理へと導いたり、教育、指導する時間が必要です。

そういう理由と神のご命令で、献金を頂いています。


献金の額に制限はありません。

各自が神との対話の中で神であられる主イエス様との間で献金が決定します。

ですから全ての奉仕や献金は、信仰によりなされる事であり、教会が定める事ではありません。

信仰が成長して、長老や役員となり、クリスチャンとして集まり、献金に対してのルールを定める事も自由ですが、例えば皆が1万献金すると決めても、その通りにしなければならないという決まりはありません。

ルールに従わないから異端児したり、仲間外れとするならば、そのようなルールを決める事が不正となります。

また、ここが現代のキリスト教の問題であると思うのですが、献金という制度は、あくまでも聖書を読み、神との契約を知り、救いを知り、洗礼を受けて神のお弟子となり、キリスト教会に所属して、毎月の聖餐式に預かった人が神との関係においてするものです。

もちろん、神を信じてなく、キリスト教に入信してない人も、献金や奉仕を望めばする事が可能です。

つまり、献金について強制的であってはならないという事と、キリスト教に入信してなく、クリスチャンでない人達は、献金が何のためになされるのかを知りませんし、これが、強制的に捕らえられるとならないのですが、教会によっては、定額献金や夏季冬季献金があります。

また、献金の額についても例えば年間1000万もらっている、200万もらっている人では献金がことならなければ、なりません。

文字は人を殺し霊は人を生かすとあるように、物の本質を見極めて個々で神への定められた献金をなす必要があります。

その本質とは、この世は、主イエスに従っていない、資本論では共産主義と違い需要と供給で給料が決まっており、差別があるという事です。

この世では、弁護士や医者や大学の有無により給料や出世が代わりますが、公儀と公正という意味合いでは不公平でしょう。

しかし、真のキリスト者は、神に忠実なのでこの世の矛盾した給料システムがあっても正しい献金をするはずですが、そうなってないのは、広い門、狭い門とあるように、滅びの道と救われた人の道の差だと感じます。


さて、話しを戻します。

例えば、献金については、神に祈った上で献金しますが、家族4人暮らしで1ヶ月いくら掛かるかで決まります。

1000万もらう人、240万もらう人で同じく4人家族であるならば、掛かる費用は、平等であったとします。

1ヶ月20万であるとします。

ところが残るお金は、1000万の人は、約80万残るとして、240万の人は、0円です。

この不公平は、上述したように、給料の差から来ています。

ここで神の契約の十分の一という事の本質を見ないとならないと思います。

献金とは、本来その家族が生活をする生活の内収入と支出のバランスにおいて生活に支障をきたさないという事で献金は、10分の1とされています。

しかし、最初の給料から差別があるので、献金をどうするのかと祈るとすると神はこのようになされると予想できます。

生活に必要な費用と

神から与えられる個人が持って良い費用

一例をあげるならばあくまで献金は、神との対話ですが、

1.家族の生活費用20万

2.残りの60万は、1.教会への献金30万、世の中の人達や聖書を作る費用などに25万

残り5万が貯金としたとします。

なぜこのように書くのかと言うと、神と富とには、仕えられないと言う事です。

神はこの世での差別をクリスチャンに許してないと言う事、また天富を積むという事で言うならば、もちろん、すんでいる家や子どもの大学費用などを勘案して神が私達に残す生活費用以外のお金は変わりますが、恐らく、かなり少ない状況を求められると思います。

会社の場合は、設備投資、従業員への給料を勘案した上で献金がなされていくのでしょうが、現状クリスチャンに貧富の差があり、お金持ちは、大きな土地を幾つか持っています。

では、どのように神と富、救いの問題について罪や不正を個々で見抜くのかというならば、聖書を読むと分かります。


1.霊が諸教会できく事を考察する。

2.お金や医療が神よりも頼りとなり、偶像となり、神よりも頼りとしてしまう。

3.神の夢、癒し、奇跡が全くない状態

信じた私達は、聖書にあるように、癒しや預言賜物を授かります。


神の夢や様々な聖霊による導きがない状態であり、牧師、長老、信徒の忠告が聞けなくなり、聞いても見ても聞けなく、見れなくなるとしたならば、神の道から外れている可能があるでしょう。

その人が、御言葉を道端へ捨てた結果に、サタンに食べられてしまうのですが、注意が必要です。


今日は、労働と対価、献金とは何かについてお話ししました。

聖書の学び