意志から純粋経験に至り、知識的真実に達する事に関して、2つの考え方について
誤解がないようにこの間書いた神の道の考察で私が引用した哲学的な物事について説明しておく。
この事に関して詳しい人ならば、上述した事は無神論者の価値観であると思うだろうからだ。
私が言う純粋経験とは、そういう一般的な、唯物主義が言う純粋経験と言う事ではない。
または、カントの言うアプリオリから考察する合理主義から来る経験主義でもない。
アプリオリとは、人は、認識以前に持っている物事をさす。
例えば空間認識や、5次元など私達は、誰に教わったわけでないが、経験によらず最初から認識できる能力があるということである。
また、ヘーゲルが言うように悪矛盾という考察があり、認識ができてもそれを解明できない事がある。
また、合理主義は、経験で解決できない物事の解決をアプリオリという解釈により合理的に解決に導いた。
しかし、悪矛盾に於いて合理主義によっても解決しない事もあるという事も付け加えておく。
しかし、私が言う事は、上述した哲学的観点での話しでない。
私が書いたのは、聖書の御言葉と哲学的な思惟から考察して書いたのである。
行いのない信仰は、過ちであるのと言う意味合いでの純粋経験であるし、知識的真実とは、異端が教える、グノーシス、知識主義と言う事、知識から救いが得られるという意味合いではなく、まず祈り、神との対話をなし、思惟し、知的直感が与えられて、真理に至ると言う意味合いでの、知識的真実と言う事で書いており、哲学的に言う解釈と、私が言う解釈は違うという事と、キリスト教的には、無神論と違い思惟とは、必然性を持ち、また、神からの啓示であり、我々の知識的感覚から全てを過ちとして、ただ、思惟により、神の啓示、預言により、真理に至ると言う事である。
デカルト派は、明確なる思惟によりて実在の真実を、知り得ると信じたし、仏教でもこの世の快楽や短絡的な生き方を過ちとしているのであるが、私は、キリスト教の伝道師という立場であるので、上述した事に於いて、神ありての哲学的思惟を勘案した上での考察だと言う説明をさせて頂きました。
主イエスを、信じるならば、十字架の愛により誰でも救われていきます。
その本質は、0であり、1であります。
早く言うならば希望は永遠の命の道、神の道なのであります。
そのように正しく信仰生活を歩もうとする人が計画により救われた人なのです。
しかしジョンウエスレーのようにカルバンのように、信じた後に、計画による救いが訪れ、コンバーションするかもしれませんがこれもまた、神の計画によるのだと思います。
だから私達は、救われたといっても眠っていることがあり、しかし計画により救われた人は、その人が生きている時目覚める人もいればはじめからパウロのような方もおられるのです。
そういう意味合いで、信じたあなたは、救われています。
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