賛美曲1.不明、2.オリジナルソング主は、分かってくださる。
https://youtu.be/V-kYXllPa28?feature=shared
メッセージ一粒の麦が落ちたからといって
皆さん、昨日は、雪が降りましたが、幸いにな事に雪がやんで晴れました。
私たちは、天候により一気一優していますが、今日1日を神に感謝していきれるよう願います。
主イエスは十字架に掛かられて私たち全人類に救いを与えられました。
このお方以外に救いはありません。
赦す事ができるのも神であられる主イエスです。
その主イエスか一粒の麦という例えをなされたのは、この一粒の麦が主イエス御自身であることを指しています。
この箇所は、2つの意味合いがあります。
ひとつは、その一粒の麦が落ちる事により、聖霊が与えられるという事です。
救いの知識、真理が与えられるという事や、救いの確信は、聖霊によるものです。
また、福音が伝えられるのは、聖霊の働きによってなされます。
ですから、蒔くものも、刈り取る物も互いに喜び、一人、一人が、豊かな甘いブドウの木の実と変えられるのです。
そして、この一粒の麦は、2番目に、復活したキリストと私達を意味しています。
ヨハネ福音書12:25、26には、信じた者が、どうあるべきなのかを、キリストは、示唆なされているし、私達が、復活に預かる方法が書かれています。
朗読してみます。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
ところで、皆さん、信仰者には、勇敢な使徒パウロのような方もいれば、身分の高い議員であり、金持ちであったアリマタヤのヨセフのような人物様々います。
信仰とは、先の者も後の者もいるなかで、私が、配慮すべき事は、主イエスの仰せになる事を全てクリスチャンの益となるように話す事を求められています。
牧師、伝道師はそういう意味合いで言うとかなり難しい仕事と言えます。
クリスチャンにも1.初めから勇敢な方
2.勇敢というのとは違い、誠実で敬虔な方がおられます。
人により語り方に対しての配慮をしないと悪魔にやられる結果となりえます。
繰り返す事になりますが、ヨハネの福音書12:25を見ると自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
このように書いてありますが、信仰とは、成長するものです。
計画による救いにより、私達は、主イエスにより救われたといえども、初めから先ほど上げた聖書の御言葉を理解できても、命を捨ててまで従えるようになるのには、段階があります。
信仰には、徳を積み、慈しみ深くあり、繊細な心をきちんと保ちつつ、正しい信仰生活と祈りが必要であります。
長い時間が掛かると思われるし、死ぬ直後にそのように変えられるかもしれません。
この事は、弱い人へのつまづきともなりえます。
だから、私は、一粒の麦の話を語る時に、エステル王妃の話しを取り上げて話しをしていきたいと思います。
その前に、もう一つ聖書箇所を紹介します。
マタイ12:41
ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
私達が、一文字により、誤ってはならない事、それは、主イエスの救いは、恵みであり、本当に信じた人は、救われているという事です。
主イエスは、羊飼いであられると仰せになっております。
という事は、クリスチャンが雄々しい羊であろうとも狼になってはならないという事です。
人は、出来ない事があったり、信仰が上手くいかないと、つまづきやすくなるだけではなく、クリスチャンとして、大切な御霊の実が、疎かになりがちです。
いいですか?
狼に、なってしまってはいけません。
ヒューマニズムと信仰を誤解してはならないし、また、自己の功績の為にだけ、生きてはなりません。
主イエスは、勇敢となる事を求められますが、
愛、喜び、平安、忍耐、親切、善、真実、柔和、自制これらの事が、まず私達に必要な事であります。
何事にも順番があります。
初めから勇敢な方もおられますが、今話す事は、全てのクリスチャンが主イエスから求められていることです。
信仰の土台がないのに、命を捨てて従うという事を話されても、机上の空論となってしまいます。
私が思うのは、まず、心の繊細さを捨てず、優しく愛があり、敬虔なクリスチャンであるべきであると思います。
今回一粒の麦が、落ちたからといって、とメッセージしたのは、上述した事の為です。
エステル記の概要お話致します。
エステルは王妃でした。
王の王妃ワシュティが、王に従わないがゆえに、選ばれた、エステルですが、捕囚の時、モルデカイに、娘として、引き取られていたのですが、そのモルデカイが、大臣ハマンに対して、信仰故に敬礼を拒否した事により怒り、ハマンの悪巧みにより、ユダヤ人が、殺害される所であったが、彼女が、王に勇気を持って申し立てて、ユダヤ人は、救われたという話しですが、彼女の心が、清く、愛のある方であったからこそ、なしえた事であるから、私達クリスチャンが、雄々しくあるという事は、優しさや繊細さを捨てる事ではなく、愛し合うという事が、必要であるとわかります。
自分の命を捨て従う者を、主イエスは、僕と言わず友と呼ばれるが、その前に、私達は、約束の地にモーセが荒野で40日40夜さ迷ったように、信仰とは、カップラーメンのように、すぐに聞いてできる物ではないという事がわかります。
神は、公義の小道の道を歩かせます。
神のか細い声こそが、神の道であると私は、思います。
聖霊は、私達を闇から光へと正しく導く存在です。
それは、この世の知識ではなく、神の叡智でありますが、私達が聞いただけならば、その人に豊かな実が結ぶことがないのは、主イエスが、心のたねの話しをした事からも明らかです。
ブルンナーという方は、神の存在証明でこう言いました。
神が存在するかと興味本位で聞く人達には、沈黙せよと言います。
何故ならば、本当に神を求め救いを求めない人、良心の歪みや不正を喜ぶ人達には、一生掛かったとしても、神を信じる事が出来ない。
信じる事ができないという事は、精神的な病であるか、事物をあるがままに見ない人である様々な考察をしているが、少なくともブルンナーのいうように、善を悪として悪を善とする人は、いないように私達には良心があると言います。
ですから、私達は、真剣に神をご自身が求めたならば神の存在がわかるのです。
真剣さとは、良心に対しての尊敬であるとブルンナーは、言います。
神に対しての畏敬の念といっても差し支えないと思います。
人が神を作るのではなく、神が人を作られたという事、世界の王であり、大祭司であられる。
主イエスに従うとは、礼拝や賛美全てにおいて真剣に一生懸命になす事が大切であり、そのような人は、心配しなくとも、神の国と神の義を求めるならば、必要な物事は全て与えられます。
今日のメッセージここで終わります。