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ミッションノア

不正な管理人について2

吉さん


前回不正な管理人の事を書いたが、不正な管理人を主イエスが誉めるとは、ずる賢い人を誉めてるのか?

賢い人でお金に執着しない生き方を追及する人は、たくさんいる。

マルクスは、資本論の書いた功労者であるが編集や校正をサポートしたエンゲルスのお陰で、この世に著書を出したがお金も借りていたという。

しかし彼が悪い人、ずるいというよりもきっと不正な管理人のように、自己の仕事に忠実であるが為に他人の財産に忠実的な所があったのだろう。

そういう、体験や信徒や宣教師たちの証や私なりに洞察した上で今回の不正な管理人の答えではなく、主イエスが求めている事の主旨はこうでないかと思い書いたわけであるが、神学校でこの箇所のメッセージをするように言われる場合もあると聞く。

ではこの箇所を、牧師やリーダがメッセージするという事についてと私達が、愛するとはどういう視点で、不正な管理人のような表面的に卑怯でずる賢いと思う人を見るべきかについて考察しようと思う。

1.メッセージについて

メッセージとは、神が牧師に委託してなされ事であるが、聖書の神の教えに反してはならない。

しかし今回の不正な管理人の話しは、悪に近い見本にならないと思われる人が題材となっており、しかもずる賢く見えるクリスチャンを誉めているのだから、キーポイントは、

1.倫理的に性善説、性悪説あるなかで、黄金律と言われている。

誰でも人にしてもらいたいことをしなさい。

論語では誰でも人にしてもらいたくない事をするなとあるが、これに適用されなければならないし、そうでなくても、神の教えである寛容という事がメッセージを作る上で重要な事となると思う。

神は、神殿と黄金の例えをしたのは、メッセージは、確かに聖書の教えに反してはならないが、黄金という神の御言葉が心である神殿を癒さないならば、それは、机上の空論であると言うように、この世には、商売人や悪人に近い行為をしている人たちに対して、近づく使命がある人もいるが、例えばヤクザだったクリスチャンが、不正な管理人と当てはまる事が多々あるとして、不正を媒体として友を作り、導く使命がある人もいるし、例えば海外から単身で宣教師として導きで来た時に、修行として派遣され、アブラハムが何カナンの地に神の指示で向かったような時に、不正な管理人の例えがいかされるのであろう。


また、寛容な人、お金財産に執着せず、その人の使命のために、他人の財産に忠実となることが救われた不正な管理人なのだと思う。次に2が重要で神は愛なり、隣人を愛せよといったが、神は不正を行い、刑務所にはいるような罪を犯した人に対して祈れとは言いませんというが、悔い改めて神に立ち返れたならば、神がその人を、許すならば、私達は、その人を愛するべきであるし、不正な管理人のような人も同義である。

何しろ不正な管理人を主イエスが誉めているのだから。

しかし多くのクリスチャン牧師は、そういう人を毛嫌いする傾向があるが、神を恐れる人に救いがあるという、御言葉鑑みて

見るならば、不正な管理人を愛するべきであるし、そうできないならば、私達の信仰に問題があるのである。


神が愛する人、許す人を理解しない、認めず、憎むならば、その人が裁き主となり、その人は救われなくなるだろう。

また、教会はキリストの体なのであるから、不正な管理人とそうでなく、単にずる賢く人との判別が必要なのである。

神は、聖書で悪人と仲良くせよとは言っていない。

殴られたならば右の、頬を出して強いられたならば、その通りにさせ、神の愛と忍耐を示し、その悪人が、自分の行いを、恥じて、悔い改めた人と懇意にしなさいというのであり、社会的な罪を犯したり、教会がいっても、聞かない人を、異邦人のように見なしなさいというように、愛といっても現在進行形の罪を犯す人を許すように、聖書は、書いていない。

私達、クリスチャンがアイデンティティーを保つ為には、牧師の説教や兄弟の証が必要なのだ。

だから、牧師の説教や指導が、計画による救いに不可欠となるのである。

主イエスを信じる事の、妨害は、ヒューマニズムを利用して、混乱させるサタンの攻撃にある。


不正な管理人の例えは、ヒュ-マニズムを利用した、悪魔の攻撃から身を守る為にも役に立つのである。

神に対しての、隣人についての理解を深める必要がある。


どこまでが悪人で意味嫌うべきで

、しかし悔い改めならば、友となるのであるが、その境界線を理解する必要がある。


終わりが近い。

しかし、主イエスを、信じる人は死後が始まりとなるのです。


主イエスの十字架は真実であっても、私達の心が歪まされるならば、主イエスの十字架の愛が、人類全ての人に注がれているとなりません。

本当は、注がれているのですが罪がそうさせてしまう。裁く事で隣人を愛せなくなる。


しかし、救いは恩寵であります。


だから主イエスを信じる人は、私達の友であるし、信じるならば、

誰でも救われるのです。

行いや努力ではなく、神は救われた人に、必要な事を与えてくださり。救われます。

聖書の学び

不正な管理人についてどう理解するか?

吉さん



この箇所は、相当な難問であり、ブルトマンは、解釈不可能といい、ルター、カルバンも苦し紛れな解釈であると思うのだが、

類推する事からまず、考察してみる事を、試みるならば、答えというかこの箇所の意味合いが理解できてくる。


まず、主イエスが不正な管理人の例えについて、この箇所ゆえに不正の管理人が誉められたのだよ。

という箇所を抜粋して紹介する。

1.タラントの、例え

2.神と富とに仕える事はできない。


この2箇所が不正な管理人の例えと迎合しているのである。

不正な管理人の概要を簡単に説明すると

金持ちの管理人が財産を任されていたのだが、不正がばれてしまい、主人が怒っているのであるが、不正な管理人は、債権者に対して、その負債の証文を書き換えて、不正に不正を重ねて、自分が主人に首にされたとしても、迎え入れてくれるように、負債を帳消しにするという事でお金を作りそれを賄賂がわりとしたのである。


この事に関して、主イエスは、この世の子らは、光の子よりも賢く振る舞っており、かつ他人の財産に忠実である事に関して、誉めておられるのである。


他人の財産に対して忠実であることが不正な財産により富を作り、友達を作る事により、永遠の住まいへと入らせてもらえるというのである。


この箇所は、商売人やセールスマンの思考に近いと私は思う。

セールスマンは、他人の財産に、忠実でいかにしてこれを自社の者とするのであるが、優れたセールスマンは、情報こそお金でありかつ、相手のニーズに合わせる事が長期的な、利益となると理解している。


つまり、ただ売れば良いではなく、次へとつながる人間関係とずる賢さを兼ね備えているのである。


また罪は、負債、

と考えて言うならば、例えば、あれくれ者や罪を犯している人を導く為ではなく、主イエスを信じた後、自身が刺青や強い酒を好んでおり、しかし不正を行い、教会へ通い、負債を蓄えつつ、しかし、不正により友達を作り、救いへと導く人もいるが、この場合2通りのクリスチャンがいる、

1.不正が好きである。

しかしそれで福音を伝え、主イエスを伝える媒体とする人

2.不正を生かし、その人の友達となり、救いへと導くクリスチャン

別に不正をしたいというわけではない。


不正に関しては、あくまでも救いの媒体としているのである。


不正な管理人の例えで言うなれば、厳密に言うならば


1.の人が当てはまるといえる。

上述したことは、罪を負債と見立てた上での不正な管理人の例えである。


1.神が罪、負債を赦す。

2.クリスチャンが不正するが、これにより、友達を作り、救いへ導き、不正を許すように、お願いしてもらえるように画策する。



もうひとつの例えとするならば、今度は、不正な管理人の例えをそのまま、似た形で、している人を紹介する。


といっても、他人の財産を利用して、キリスト教の福音を利用して、不動産の友達を作り、お金や私有財産を貸してもらい、自己の利益とする人がいたのである。


おまけに自分のためにしているのが半分、自己を宣教師として呼んでいるのだから、私は、呆れもしてはいましたが?


商売人を救いへといざなっていたという事は、事実である。


そういう商売人として、利益をちらつかせて、友達となり、異邦人の救いをもたらすという人もいる。


少し不正な管理人の例えとは違うが共通している事それは、他人の財産に対して忠実であり、それにより友達を作り、その不正により福音宣教をするのである。


クリスチャンが近づけない相手がいても、また、相手が罪を犯して、神に近づかないという問題を同質の不正をする事で、その人の友達となり、救いへと賢く導き、自分も儲けるという人がいるという事である。


これらの事を勘案すると、不正な管理人とは、このように、理解して、いくと分かりやすいし、実用的であると思う。


間違っても見習うべきではないが、


ザアカイのような人物、陽気で寛容な人で、かつザアカイと違うが、それに加えて、ずる賢い人もおられるという事であるが、注意すべき事について生かすべき事について考察する。


1.不正な管理人といっても、主イエスは、この生き方についてどのような思考過程についてこれ程誉めておられるのであるか?また救われない人との相違点


2.どのように応用すべきなのか?


1が、とても重要で、上述したクリスチャンへ対して牧師が指導したり導く上でどういう価値観を肯定しどこまでが主イエスが嫌う不正な管理人であるかを牧師は判断してあげなければならない。


例えばルパン三世などとても有名であるが、ルパン三世は、お金目的でもあるが夢や冒険が好きな部分もあるのであり、ある時には死ぬような目をして手に入れた財産をあっさりと捨てたり、それに執着せず寛容である。

お調子者であっても救いのためにならば、その、財産全て上げても良いという観念に於いて主イエスは、ザアカイに対してこ言う。

今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」


さて、お金ではなくロマンや夢、救いの喜び故に生きておる人をあげたとして、今度はお金のために何でもする人がいたとする

お金の事、好きな賭博酒のためにならば何でもするしやる気となるのである。

また、注意すべきは、労働と対価という事に於いて周囲への利益分配に於いて、平等にさせるように指導する必要がある。

例えばクリスチャンを利用し引っ越しさせました。

自分は引っ越しする相手からお金をもらいました。

トラックの運転を頼み、運ぶクリスチャンは、確かに献金代わりに奉仕したとしても、ずる賢しこく、自分だけ利益を得るべきではない実際にあることです。

お金に執着しないならば公正であったでしょう。


つまりお金に執着しない人が不正な管理人の例えの方であり、寛容でありかつ、お金ではなく、何か他の御霊の事また夢のようなお金に縛られない生き方が肝要である。

そういう意味合いでいうならば、家族、生活家財産に固執して、貧しい人がいようとあの人の責任であると財産のために執着して

目の前の貧しい人を助けないばかりか、ずる賢しこく、貪欲な人や今まで家族のために仕事して都合良く神を利用して教会の牧師となり、年金と献金で楽して生活しようとする人と不正な管理人は違う。

キリストの香りがする不正な管理人とは月とすっぽんであると思われる。


財産なくなっても他者に財産があるから、そこから、お借りして、自己の利益に還元して、お金ではなくて、自己の役割や何か使命のために生きる。


信仰を持ち、生きる。

お金に縛れずに、時に財産を半分を弱き者に与えたり、100万でもバサリと献金するような不正な管理人を喜ぶのであると思われる。


1.1お金に縛られない執着してない。

2.金のために生きる


1でない人への忠告や指導は、必要となる。


2、について本質的に言うならば、不正な管理人の例えとは、罪ある世の中で、形通りにしても、不正を行うひととは、仲良くなれないし、例えば、漁師に対して丁寧語で話しても疎遠となるように、律法とは、人の秩序を形成したとしても、今そこにいる人たちが罪人であるのだから、卓みで、柔軟な思考や生き方をしないならば、福音宣教にも影響する

人は、ロボットではないのである。


本物の伝道師、宣教師になるには、柔軟な思考と視点が必要であると、私は思う。


机上の空論とならない為の、教えであると理解すると良いと思います。

また、信仰生活とは、寄留者である事を求められる場合もあるが、その事と他人の財産に忠実であることは、関係なくはないだろう。


友を作るということなしに福音を伝えられないという事でもあると思います。

主イエスは全ての人の救いを勘案されておられます。

聖書の学び

フェニキアの女と主イエスの問答について

吉さん


当時ユダヤ人と異邦人という隔ての壁は堅固であった。

上述したフェニキアの女が子犬にパンを与えた事について、主イエスが子どもたちに与える。

そのパンを子どもから取り上げて、子犬へ与える事は良くないという箇所が、今回の問題箇所であるが、この箇所は、単に子どもと子犬という事ではない。

その理由は、平行箇所をあげると明らかである。

マルコ7:26~30.

マタイ15:21~28を見るとマタイにこの1節にこう書いてある。

マタイ15:24

イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。


{主イエスは、世を愛され、御子を信じる人、全てを愛されているが、当時旧約での約束が、救世主がくるとされていたのは、イスラエルの民、ユダヤ民族に対してであり、もちろん異邦人も知っている人もいたかも知れないが、聖書にその人の、使命があり、全て成す技に時があるというように主イエスの使命は、預言者として神として、救世主として、神の民に遣わされたから上述した事をはなされたが、十字架の後異邦人の救いは、12使徒、やパウロに受け継がれた誤解があってはならないのは、主イエスは、全人類に福音を伝える事については、お弟子に任されたのであり、神の民にだけ救いがなされたのではありません。}


フェニキアの女が異邦人であるというだけではなく、この箇所からユダヤ民族、神の選民とそうでない異邦人との関係が子どが、ユダヤ民族、子犬が、異邦人という理解であることを理解しないと誤った理解をしてしまうので注意して読む必要がある。

では、ここで2つの大きな問題が提起される。

1.子どもたちに与えるパンを子犬に与えるのが倫理的に正しくないのに、主イエスがこの事について、フェニキアの女を誉めているのかというの事について


2.ユダヤ人の異邦人という事に関しての、差別ともとれる表現は、旧約聖書には、異邦人の庭があり、異邦人専用の場所があるが、異邦人は、そこにしか入れない。

例えば、美しの門があり、異邦人は入る事が出来ないのであるが、それと相反するように、神は全ての人を平等に扱っているという聖書箇所との整合性について

以上2つの事について、牧師も差別があると吐露する位の難問であると思う。

もし主イエスが差別的な神ならば全人類の救いが実現しなかったのである。


ところで1.については、マタイ15:27を読むとフェニキアの女は、決して、主イエスが言う子どもたちに先にパンを与えずにパンを子犬に与えてはならないという事について主イエスに同意してないという訳ではないという事がわかる。

マタイ15:27

女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

ごもっともです。ごもっともとは、その通りです。

という事であり、フェニキアの女は、柔軟な良い心で、自分の過ちをすぐさま認めているのである。

ああ!私は子どもの食べ物を取り上げてしまい、子犬に与えてしまった。

しかし、その通り間違いであるとして、それとは、別の事として、子犬にも、子どもが食べて落ちる、パンを僅かでも与えて下さい。と言っているのは、背景には、ユダヤ人だけではなく、聖餐式のパンと例えるとして、そのパンを足らない子犬のようなしもべにも異邦人にも与えてはくださらないでしょうか?

という謙遜な姿勢であったし、主イエスの十字架で敵意は、廃棄されるという預言的な意味合いもあったと思われる。

ユダヤ人と異邦人という隔ての壁が、十字架により廃棄されたという事と上述した箇所は、関係なくはないだろう。


聖書で誉められた異邦人は、百人隊長とフェニキアの女が上げられるが、深い意味合いがあると思う。

この事に関して神は、そうとまで言うのならばと関心して、フェニキアの女を癒した。

ところで2について差別という人がいるが、

この箇所は、雌鳥を集めるがごとく異邦人に預言者を使わしても受け入れず、預言者たちを殺したり、神の教えを受け入れないでいた、異邦人の固くなさがあったので、神の民と神の掟を守るという意味合いで、神は、聖別して区別したのであるが、差別したのではなく、異邦人が、神の命令

に従わないから、異邦人が区別された。

例えば、イスラエルを滅ぼそうとしたペリシテのように、その罪が結果として、ユダヤ人と異邦人を分ける結果となり、しかし神は、そんな大罪を犯した、異邦人を憐れみ、異邦人の庭を残されたという視点で、見るならば、神が不平等、差別的なのではなく、

神の選民以外が、神に反抗的であった結果、そうなったと理解すると理解しやすいと思います。

主イエスは、今も生きておられます。

文字で読むならば真実にたどり着かず聖霊の助けにより読むならば、御霊が人を生かします。

聖書の学び