信仰義人の反対は、救われない者と言う事であるが、誰が救われるであろうか?
という観念に対して信仰による義により生きる事という話しをしようと思う。
信仰による義
ロ10:6~8
しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
この事から、多くの方々が勘違いしてしまうのは、人の過ちを正すと言う事とその個人の救いに関しての有無を判断するという事は、別であると言う事である。
気を付けなければならない事について、御言葉から模索していこうと思う。
マタイ13:52
そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
この箇所を読むとあたかも牧師や学者たちは、真理を習得した結果にクリスチャンの悪い良いと言う事を判断しうる存在であるという事ができる。
あくまでもそれは、過去、現在、未来に於いて、今の状態に対して良い、悪いが判断できるという事である。
また、他の箇所にも山羊と羊の例え良い、悪い魚の例え、選ばれた者、招かれただけの者、愚かな乙女賢い乙女、等々聖書には、救われる、救われない人と言う事について、主イエスは、如実語っておられる。
だからといって、では、信仰義認とこれら紹介した救いに対する定義について、どのように理解すべきなのか?
と言う事について説明していこうと思う。
例えば、信仰告白や使徒条徒などを唱えていて、自分の救いに対して安心する人もいる。
30年教会に行き、洗礼だけ受けていてもたまにしか来ないで、ようやく新約聖書を読めたという人もおられる。
罪を犯してしまう人、様々問題を抱えている理由は、ローマ5:12
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
と言う事から原罪が様々な問題を起こす事は、明らかであるが、恵みによる救いがあっても、信仰の成長により、人が救われて行くのであるから、上述した救われる、救われないと言う事の判断と言う事は、神にしか分からないと言う事になる。
生きている現在に於いては、救いの判断は、できないのである。
ジョン・ウエスレーやジャンカルバンも途中改心して変わったと告白しているし、聖書を読むならば、コリントの手紙、ヨハネの福音書を読む限り、救いはその現状の状態で決まるのではないと言う事は明らかである。
コリントでは、教会は腐敗し、ヨハネの福音書の時に仮言論主義との戦いがあったという。
グノーシスにしても知識主義と言う事、異端が入り込んでいる。
現代でも異端とされているキリスト教は沢山あるし、教えに対して聖書に書いてある事と合致しない事もある。
この間紹介した新約聖書続編に関してもその一例といえる。
では、どう判断するかと言う事と信仰生活をどのように生きるべきなのかと言う事について、書こうと思う。
過去、現在、未来においてその人の救いに対して私達は、干渉すべきではないが、その人が罪を犯して過ちを犯す場合について一生懸命になり、その過ちについて伝える必要がある。
その時エゼキエルにあるが、伝えないと言う事が預言者の罪となるように口を押さえ、その人の罪を指摘しない事が、その人の罪となり得る事であるから、気を付けなければならないと私は思う。
しかし、福音宣教にしても、罪の問題にしても、相手に知らせて、それを理解しないで、聞かないのであるならば、干渉しなくて良いと私は思う。
また、私達は、常に御言葉を、読むだけではなく信じて口で告白して救われるとあるように、ヤコブ書に行わない信仰とは無益であるというように、1.祈り2.神の導きをはんだんし、3.祈りの結果信仰により行う必要がある。
自分のイデオロギー、ヒューマニズム、またパトス、感情に従って行動する人は、絶望であり、闇に支配されてしまうし、神ではなく己にしたがっていまう。
御言葉に従わない人は、必ず形を変えて来る御言葉に反発し、その対象に対して悪を行ってしまう。
信仰の成長は、悪や罪を行う人には、与えられない。
教会に通い、霊が緒教会で告げる事を聞き、祈り、求めて、信仰により口で告白する事により、完徳の道、神の道に至り、本来の自己がその人の心に現れて、聖霊様の声、神の夢や啓示などが示されるようになる。
信仰の成長は、神を畏れ、恐れ敬う人に顕著になる。
このように、救われたと言う事を文字を頼りとせず信仰により、霊により、生きる人が本当に救われた人である。
文字は人を殺し、霊的は、人を生かすと言う事に対しての失敗をしたのが、パリサイ人であった。
律法を文字や、形式で捉え、本来、安息日しても、掟とは、人の子の為にあるという事について、愛という事についてが欠けていたのであるが、要するに律法とは、黄金律、誰でも人にしてもらいたい事をしなさい。と言う事に、集約されているのだと私は、思う。
律法は、計画による救いとも大きく関係するが、仮言論や異端に惑わされないようにする必要がある。
さて今度は、救いと言う事に対しての判断について、ですが、それは、その人の最後がどのような状態であったのかと言う事で判断できるだろう。
悪い結果に終わった人は、初めから本当の意味合いで信じてないのだと思う。
聖書にも、死に値する罪に関してそれ以上祈れとは言わないとあるように、まだ生きている状態の人の救いに関して分からないが、注意しなければならないのは、生きている間油断はできないと言う事になる。
棄教する人もいるように、信仰義人とは、あくまでも過去、現在、未来において現在主イエスを信じている方は救われているという事であるし、棄教してたとしても戻るならば、その人の救いは有効であるという事である。
しかし、真面目に主イエスを信じて自分の利益、不利益に関わらず、神の御言葉を頼りとする人は、信仰による義からそのようにしているので救われた人であるし、そのような立派な人を模範とし、主イエスに従う人でありたいと思います。
よって信仰義認とは、最終的に私と主イエス、あなたと主イエスとの関係であるといえると思います。
このようにすると良いと思うのは、何か問題があった時、その問題に対処するという事が計画による救いと関係がある。
逆にいうと義と愛から離れた行為は、信仰による義を全うしないという事を理解するならば、悪口や虚無に陥る状態でないならば、信仰義認が、確立しているのだと私は思う。
信じて口で告白する人は、誰でも救われています。