noah777のブログ

ミッションノア

救いについて

吉さん



信仰義人の反対は、救われない者と言う事であるが、誰が救われるであろうか?

という観念に対して信仰による義により生きる事という話しをしようと思う。

信仰による義

ロ10:6~8

しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。

また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

この事から、多くの方々が勘違いしてしまうのは、人の過ちを正すと言う事とその個人の救いに関しての有無を判断するという事は、別であると言う事である。


気を付けなければならない事について、御言葉から模索していこうと思う。


マタイ13:52

そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

この箇所を読むとあたかも牧師や学者たちは、真理を習得した結果にクリスチャンの悪い良いと言う事を判断しうる存在であるという事ができる。


あくまでもそれは、過去、現在、未来に於いて、今の状態に対して良い、悪いが判断できるという事である。


また、他の箇所にも山羊と羊の例え良い、悪い魚の例え、選ばれた者、招かれただけの者、愚かな乙女賢い乙女、等々聖書には、救われる、救われない人と言う事について、主イエスは、如実語っておられる。


だからといって、では、信仰義認とこれら紹介した救いに対する定義について、どのように理解すべきなのか?

と言う事について説明していこうと思う。


例えば、信仰告白や使徒条徒などを唱えていて、自分の救いに対して安心する人もいる。

30年教会に行き、洗礼だけ受けていてもたまにしか来ないで、ようやく新約聖書を読めたという人もおられる。

罪を犯してしまう人、様々問題を抱えている理由は、ローマ5:12

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

と言う事から原罪が様々な問題を起こす事は、明らかであるが、恵みによる救いがあっても、信仰の成長により、人が救われて行くのであるから、上述した救われる、救われないと言う事の判断と言う事は、神にしか分からないと言う事になる。

生きている現在に於いては、救いの判断は、できないのである。


ジョン・ウエスレーやジャンカルバンも途中改心して変わったと告白しているし、聖書を読むならば、コリントの手紙、ヨハネの福音書を読む限り、救いはその現状の状態で決まるのではないと言う事は明らかである。

コリントでは、教会は腐敗し、ヨハネの福音書の時に仮言論主義との戦いがあったという。

グノーシスにしても知識主義と言う事、異端が入り込んでいる。

現代でも異端とされているキリスト教は沢山あるし、教えに対して聖書に書いてある事と合致しない事もある。


この間紹介した新約聖書続編に関してもその一例といえる。


では、どう判断するかと言う事と信仰生活をどのように生きるべきなのかと言う事について、書こうと思う。


過去、現在、未来においてその人の救いに対して私達は、干渉すべきではないが、その人が罪を犯して過ちを犯す場合について一生懸命になり、その過ちについて伝える必要がある。


その時エゼキエルにあるが、伝えないと言う事が預言者の罪となるように口を押さえ、その人の罪を指摘しない事が、その人の罪となり得る事であるから、気を付けなければならないと私は思う。


しかし、福音宣教にしても、罪の問題にしても、相手に知らせて、それを理解しないで、聞かないのであるならば、干渉しなくて良いと私は思う。


また、私達は、常に御言葉を、読むだけではなく信じて口で告白して救われるとあるように、ヤコブ書に行わない信仰とは無益であるというように、1.祈り2.神の導きをはんだんし、3.祈りの結果信仰により行う必要がある。


自分のイデオロギー、ヒューマニズム、またパトス、感情に従って行動する人は、絶望であり、闇に支配されてしまうし、神ではなく己にしたがっていまう。


御言葉に従わない人は、必ず形を変えて来る御言葉に反発し、その対象に対して悪を行ってしまう。


信仰の成長は、悪や罪を行う人には、与えられない。


教会に通い、霊が緒教会で告げる事を聞き、祈り、求めて、信仰により口で告白する事により、完徳の道、神の道に至り、本来の自己がその人の心に現れて、聖霊様の声、神の夢や啓示などが示されるようになる。


信仰の成長は、神を畏れ、恐れ敬う人に顕著になる。


このように、救われたと言う事を文字を頼りとせず信仰により、霊により、生きる人が本当に救われた人である。


文字は人を殺し、霊的は、人を生かすと言う事に対しての失敗をしたのが、パリサイ人であった。


律法を文字や、形式で捉え、本来、安息日しても、掟とは、人の子の為にあるという事について、愛という事についてが欠けていたのであるが、要するに律法とは、黄金律、誰でも人にしてもらいたい事をしなさい。と言う事に、集約されているのだと私は、思う。

律法は、計画による救いとも大きく関係するが、仮言論や異端に惑わされないようにする必要がある。


さて今度は、救いと言う事に対しての判断について、ですが、それは、その人の最後がどのような状態であったのかと言う事で判断できるだろう。

悪い結果に終わった人は、初めから本当の意味合いで信じてないのだと思う。

聖書にも、死に値する罪に関してそれ以上祈れとは言わないとあるように、まだ生きている状態の人の救いに関して分からないが、注意しなければならないのは、生きている間油断はできないと言う事になる。


棄教する人もいるように、信仰義人とは、あくまでも過去、現在、未来において現在主イエスを信じている方は救われているという事であるし、棄教してたとしても戻るならば、その人の救いは有効であるという事である。


しかし、真面目に主イエスを信じて自分の利益、不利益に関わらず、神の御言葉を頼りとする人は、信仰による義からそのようにしているので救われた人であるし、そのような立派な人を模範とし、主イエスに従う人でありたいと思います。


よって信仰義認とは、最終的に私と主イエス、あなたと主イエスとの関係であるといえると思います。


このようにすると良いと思うのは、何か問題があった時、その問題に対処するという事が計画による救いと関係がある。


逆にいうと義と愛から離れた行為は、信仰による義を全うしないという事を理解するならば、悪口や虚無に陥る状態でないならば、信仰義認が、確立しているのだと私は思う。


信じて口で告白する人は、誰でも救われています。

聖書の学び

続編を聖書の一部として良いのかと言う事について

吉さん

紀元前586年に新バビロニア帝国ネフガデネザル2世により、南ユダが滅ぼされ、紀元前721年にアッシリアにより、北イスラエルが、滅び、両国は、罪故に神に罰せられて、捕囚の民になった。

神殿は、ネブガデネザル2世により滅ぼされたが、エルサレム陥落約50年後、バビロニアが、ペルシア王キュロスに滅ぼされ、エズラ、ネヘミヤが第二神殿を建てたが、第一神殿よりはるかにみすぼらしかったのだという。


ギリシアでは、アレクサンドロス王が、ギリシア全土を制圧し、ペルシアを滅ぼし、アレクサンドロス王の死後、その帝国は、マケドニア、エジプト、シリア3つの王朝に分裂し、パレスチナは、エジプト、シリアの支配下に置かれた。

シリアが、ヘレニズム文化をユダヤ人に強制し、遂にエルサレムの神殿にゼウスの祭壇を設けた。

マカベヤ戦争は、そういう経緯で、起きた結果、ユダヤ人は、シリアより独立し、宗教的自由を獲得したが、ローマ帝国が、エジプトとシリアを滅ぼし、ユダヤ人もローマ帝国のポンペイウス将軍に滅ぼされて、ローマの傀儡となる。

今回簡単に、捕囚後からローマ帝国によりユダヤ人が傀儡となる経緯を書いたのは、聖書で続編とされているマカバイ記に対してこれを新約聖書に入れて良いのか?という事について、私なりの見解があるので、紹介しました。

結論としては、グノーシス同様続編は、新約聖書として認めてはならないと思います。

マカバイ記が新約聖書に入れてはならないと思う理由として歴史の部分を抜粋して紹介しました。


黙示録22:18.19に書いてある内容を紹介します。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。

また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

このように新約聖書に続編を入れるかどうかと言う事が、クリスチャンにとって大きな問題であるといえる。


では、マカバイについて、

問題あると思われる箇所を紹介しよう。


この箇所は安息日の惨劇と言われている。


マカバイ第一2:37.38

こう言った。「我々は全員潔く死ぬ。お前たちが我々を不当に殺したことを天地が証言してくれよう。」

こうして安息日に兵士たちは彼らに襲いかかって打ち殺し、その妻子、家畜までも殺し、犠牲者の数は一千人に及んだ。

この箇所を読むと分かるが、

神の律法、教えに従った結果に、死ぬ事となるという箇所が問題なのである。

新約聖書、旧約聖書には、罪の結果に滅びると言う事が書かれている。

また、ステパノが殉教した時、神に従った結果に殉教したとあるし、バプテスマのヨハネが、殺されたと言う事があるとしても、問題は、律法を守り行った結果、殺されると言う事が聖書の教えに反していると、思われる。

何事にも時があるという。

殉教したとしてもそれは、その人が完成した後に起きた事であった。

信仰の完成後の殉教は、決して聖書に反した教えとは言えない。

この世は、闇なのであるが、信仰の完成後の殉教は、救いに対して、義のために迫害されたとしても救われるとあり、迫害というからには、殉教もあり得る、そういう意味合いで、聖書の教えに反してはいないが、神は、律法の教えを守り、従う人を守り、悪から救うと言う事において、


律法を守る民が滅ぼされると言う事が、書かれていないと思います。


イスラエル、ユダが捕囚にあったのは、あくまでも律法違反、神に逆らった結果であり、民全体が律法を守らないから、滅ぼされる事実が歴史上にあったとしても律法遵守した民全体の殉教に関しては、聖書の歴史上の中において書かれていない。

民全体が信仰の完成がなされて殉教したのか?疑問です。

神は、義の方であり、一人として滅びる事を望まれないという観点から反しています。

この世とあの世という2面性から見て救いがなされていないまたは、神の義において整合性がないと思われる箇所は、おかしいと疑った方が良いと私は、思います。


聖書は、人の為の倫理道徳という観点で主イエスが書かせている部分がある。

また、歴史を鑑みても、マカバイの後ローマに滅ぼされたが、神に従った者たちであるという事がこのマカバイ記を主イエスが聖書としてお認めにならない理由であると思う。


これはあくまでも私が主イエスとの対話の中で導かれた見解であるので、参考にしてほしい。

しかしこの事や、救いは、聖霊の働きにより明らかになります。

聖書の学び

ブルトマン非神話化について 聖書をどう理解するべきか。

吉さん


非神話化という観念を小田垣雅也師は、このように読み、私達に示唆なされた。

非神話化とは、例えば復活や男女の関係ではなく、聖霊により語られた事について、哲学から考察して告知と言う形で、その本質を取り出すのだと言う。


その現代の客観的見解により、聖書本来の神話という事を否定するのではなく、本質を捉えようという事が非神話化である。

非神話化という観念を鑑みて私なりの見解だが、聖書の神話と言う事は、信仰より聖書を理解するならば、神話ではなく、現実であるし、変えてはならないと思う。

そうしないと森鷗外が小説で書いたかのようにという小説の歴史家のように悩む事となる。

何故ならば歴史文学においての証明にキリスト教文学を否定しては、矛盾が生じるほどにキリスト教の影響があるからである。


また、善悪の知識とは、そもそも全てを意味する事柄であり、神と同等になろうとする事でもあると理解するならば、

まだ、人類が知らない事も沢山あるのだと言わざる得ない。

あの使徒パウロがわたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになると聖書にあるように人類は、神により、知らしめない事柄に対して改変すべきではないと言う事、黙示録にあるように御言葉を改変する者は、呪いを受けるばかりか、虚偽の事実を伝えることとなると言う事を鑑みて信仰生活を送る必要がある、


現代科学や本質と言う事と聖書が相反してしまってはならないと言う事である。

それは、ブルトマンが言う現代人に分かりやすく語るという事とも違う事である。

内村鑑三師が言うようにキリスト者であるから進化論をひていし、創造論を肯定すると言うはっきり分からないことであっても神の御言葉だから受け入れるという事も大切である。


人類は、知るべき事を探求したとしても、信仰によりそれが、為されるべきであり、それ以外のヒューマニズムや本質的事実が聖書との整合性を見出す事ができない事もある。


上述したブルトマンの非神話化は、現実という分けでもなく、神話に対しての客観的解釈と言う事であるので、聖書に告知という意味合いでのブルトマンが言う非神話化という事だけで聖書を理解する事は、できないと私は思う。


上述した事から聖書を正しく理解するとは、神話と言う事は、信仰によるならば、真実であるので、そのまま受け止め、倫理的洞察に関して鋭く考察すると言う事が必要である。

倫理的洞察、非神話化という事は、未信徒、異邦人には、必要なことであり、牧師や聖職の任務に関わる物は、現代人に分かりやすく噛み砕いた聖書の教え方をする必要があるし、例えば復活再臨運動などは、教会の文化歴史に迎合し、固着化しつつ、定着化するならば異邦人をつまづくかせる結果とならないと私は理解している。

時代により、本質的に、今神話と言う事としてしか、理解できない物事の解明が為されるならば、それは、非神話化、現実、真実として理解されて行くのだから、私達は、解明されつつある事、そうでない事に於いても、信仰によりそれを理解するとしても上述した2つの視点から物事を見ないならば、信仰により信じる人となり得ない。

計画により、信じて救われた者とされるとは、現在、過去、未来に於いて先ほど申しましたように、あの使徒パウロが言うように、反芻する事となるが、

鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

この箇所を持って理解すべきであるし、注意すべきは、非神話化と言う事ではなく、人類にとって神話も非神話という理解も信仰によるならば、神話ではなく、真実であると言う事、それは人が、最後あの世で明らかにされる事があると私は、考察し、そのように理解している。


ただ幼子のように、はいは、はいは、いいえは、いいえと理解しない者は、必ず神を無視し、聖書を自己の神話や理解で否定し、そういう人は、自己を偶像化し、神と自分、クリスチャンの中でも知っている者と自負する高慢が、うまれる。

知識は、人を高ぶらせる。

人が知り得る事は、神から見ればほんの一握りであり、私達は、時代や本質と言う事だけに囚われないで、常に信仰を持って聖書を読まないならば、狭い道から外れてしまうと言う事しかし、噛み砕いた解釈も神を信じてない人には、必要であると言う事で、今回ブルトマンの非神話化と言う事を紹介しました。


主イエスを信じるとは、はいは、はいは、いいえは、いいえであり、聖書に忠実であると言う事なのである。

聖書の学び